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2012年11月

2012年11月30日 (金)

天地真理72 ひとりじゃないの(7) 良響歌

最近知ったのだが、亀田誠治さんというアレンジャー・プロデューサーの方が、
ご自身のホームページで、「亀田大学教養学部」の第1回の講義という形で、
7歳だった当時、天地真理さんのアルバム「ギフト・パック・シリーズ」
(1st並びに2ndアルバムから抜粋した11曲に「虹をわたって」を加えたアルバム)
を、The Beatlesのアルバム「
something new」、クラシック名曲集と並ぶ、
音楽体験の原点として挙げられておられる。

”現在の僕のルーツだと言えるアルバム
”だと語っておられ、、
当時、”カワイい”ということで天地真理さんに興味を抱いたわけではなく、
”音楽”として心に刺さったと証言しておられる。
ここに、アイドルというものの世間的イメージなどの、
粉飾概念からは完全に解き放たれた、素直な受け止め方の典型がある。
そしてそこで、
”サウンドとして優しくふくよかで、洗練された女性ボーカルもの”

という認識で、”カーペンターズやオリビア・ニュートンジョンと繋がって”いると
主張されている。

私はこれを読んで、随分すっきりしたような気分になった。
そういえば当時、カーペンターズもしょっちゅうラジオから流れていて、
歌詞の意味も大して理解せぬまま、
私自身がその独特の響きの声に好感を持った記憶がよみがえった

同時に、天地真理さんの歌も、元を辿ればそれと同様に、
当時の他の歌謡曲や演歌とは異なる、
いい響きの、洗練された女性ボーカルとして聴いていたのではなかったか、
という、記憶
の彼方の思いが甦ってきたのだ。

それが何らかのテレビのイメージや、そこでの演出のされ方、
そこでの歌の扱われ方などと、
前項で触れたような、私の中の何らかの先入観や当時の価値観などとが
相互に作用してしまって、
目をそらし、
本質を見失ていってしまったのではないかと思う。
私の中の引っ掛かりのようなものは、
やはりその本来の、”いい響きの、洗練された女性ボーカルとして聴いていた”
理屈抜きの原体験に
ったのではないかと、腑に落ちたような気分になった。
それこそが、私だけのことに限らず、
年間アルバム売上で1位と3位を同時にとってしまう

ごく単純な原動力でもあったのではないだろうか。


振り返ってみると、カーペンターズのカレンの声も、
音域や地声であることなど違うところも多いが、
倍音豊かな響きの良い声が魅力の核になっていたように思う。
グループサウンズ、演歌、フォークなどとして分類されていた当時の日本の歌の世界は、
こぶし、うねり、唸り、ドス、泣き、などまで交えた過剰な表現力の追及の果てのようなものと、
逆に歌唱表現にほとんど無頓着で、その点ではほとんど素人同然のようなものが混在していた中、
流行歌ならぬ、”良響歌”とでも呼びたくなるものが
私が求めていたものではないかと思う。

私のイメージする、そして求める”良響歌”の基準は、
声の響き自体の心地よさを核として、
音楽の基本となる音程やリズム、ビブラート、言葉の発音、などが
洗練されている歌、
と言い表せる。

同時に、このタイプの歌にとっては、
過度な表現手法や、歌詞を通じた過度なメッセージ性はあまり相性が良くな
く、
かえってその良さを損ねてしまう、と言えそうである。

今から思えば、当時の私の偏屈な精神にも、
アルバム中の曲、例えば前に
ここでも触れた「なのにあなたは京都にゆくの」や、
その後の「この広い野原いっぱい」のような歌を、
当時のラジオ
等、何かのきっかけで聴いていれば、
私の天地真理さんの歌そのものへの認識や注目度は変わっていたかもしれない。

シングルレコードは、その歌手に対する小さな覗き窓であ
その巧みに企画
、特化された一断面の中からどのような可能性を聴き取って、
アルバムへと聴き進んでいくか、だろう。
テレビは、その歌手のある側面を無防備に映し出す、棘のような刺激なのではないか。
あるいは、その歌手の様々な魅力を映し出すものでもある一方、
過剰な何かを与えてしまうのではないか。

そんなものの中で表現される、その人の様々な側面、様々な魅力は、
その人への引力となって、その人の本質に気付くチャンスを与える一方で、

それらに惑わされ、誤解し、本質から目をそらす斥力ともなる危険性をはらんでいたかもしれない。


今年10月からFM軽井沢
「天地真理ミュージックコレクション」と題し、
毎週土曜日17:45~18:00 (
第一回目は10月1日)
に天地真理さんの音楽だけを放送する番組が始まった。
ここではシングル版としてヒットしたものを流すというだけでなく、
アルバムに残された数々の隠れた名唱から選ばれた歌をも放送されるようである。

このFM軽井沢はインターネットで全世界で聴くことができる。
新たな出会いであっても、
また私のような、過去の何らかの小さな縁からの再会であっても、
今ならその良さを素直に感じてもらえるのではないかと期待する。

                                    (「ひとりじゃないの」の項 終)

2012年11月23日 (金)

天地真理71 ひとりじゃないの(6) 偏見

さて一方で、悲しいかな私は当時、
最優秀歌唱賞に値すると考えたりするほど、この歌「ひとりじゃないの」を真剣に聴いていなかった

という苦い思いが横たわっている。
なぜ当時私自身が、そこまでこの歌を、
またこの後に続く天地真理さんの歌自体を当時、今ほど評価できなかったのか。

当時私は、テレビで見たりはしていたものの、
アルバムを買うでもない、ブロマイドを買うでもない、
コンサートに行くでもない
、主演の映画を観るでもない、
ましてや当時のファンクラブに入るでもない、
天地真理さんのファンとはとても呼べない存在だった。
シングルレコードを2枚ほど買った程度だ

しかし、テレビやラジオで聴いたいくつかのヒット曲は強く印象に残っていて、
どこかに何かが引っ掛かっていて、
ずいぶん後になってYouTubeでいくつかの歌を聴き、
ひっかかりの正体のようなものを見出したような気になって、
それまで何かが邪魔してアルバムを1枚たりとも買おうとしなかったにもかかわらず、
「プレミアムボックス」というCD全集を手に入れて聴くに至り、
ようやくその歌の本当の良さを認識するまでになった。

「プレミアムボックス」を聴いた時点で、一部のヒット曲を除いて、
かなりの曲を始めて聴くといった有様だった。

 

なぜそうなったのかを今考えてみると、二つの理由が思い浮かぶ。

それは
 1.大衆に人気がある、アイドルである、子供に人気がある、ということへの偏見
 2.明るく、優しく、楽しくなる歌への偏見
である。

これらの偏見は、そのまま、日本レコード大賞歌唱賞などの、
歌謡曲における”歌唱力”への偏見にも通ずるものではないだろうか。

アイドル的まぶしさは、一方でその歌そのものへの、私の注意を損ねた。
子供にも人気があることを、今ならむしろ良い方に評価できるが、
当時の青年期の私は、それらの状況を見ただけで、
無意識のうちにそれが一段低いもの、
価値ある芸術からは遠いものと思ってしまった。

音楽において、平坦なものよりはドラマティックなもの、
オプティミスティックなものよりはぺシミスティックなもの、
出会いよりは別れ、
そんなものの方に価値を感じようとしていた。
本当に理解し、共感できたかどうかは別として。
明るく楽しいものの、芸術としての価値から目をそむけていたのだ。
言ってみれば、天地真理さんの歌に対して、
いや天地真理さんに対してすらも、真正面から向き合うことを避けていたと言えるのではないかと思う。

今では、幸福への憧れ、前向きさ、優しさ、といったものが、
底抜けに明るいだけのものから生まれるのではなく、
寂しさとか、悲しさとかいったものと無関係に成立するものでは必ずしもないことも理解でき、
それらにこの上ない価値をも感じることができる。
そのようなものを含む歌の価値に、
少なくとも久世さんは気付いていたのだろうが、
私は当時気付いていなかったのだ。

年間アルバム売上が当初ほどでなくなったことをことさら取り上げ、
その理由を考えようとする思いの中には、
当時アルバムを買い控えた人たちのいくらかは、それは決して多数派ではないとしても、
私と同様な心理もあったのではないかという、勝手な疑いがある。
私自身、当時からそこまで冷静に自分の心理を分析し
、自覚していたわけではなく、
今思い返してみての、いわば言い訳的な理由づけでしかないようにも
思う。
もちろん私は、天地真理さんの映像的要素や、そこからにじみ出てくる人柄的要素を否定するつもりはない。
歌に表れてくる魅力が、その歌手の人柄などの深層部分にも依存することを認めるのは、
「不世出の証③」の項で述べたとおりだ。
しかし歌手の
映像的要素や人柄的要素が特徴的であればある程、
それが、その時の聴き手の精神状態
に応じて、
何らかの先入観を与えたり、判断基準を狂わせたりする、
ひいては歌手という断面においては、大いに歌の魅力を高める相乗効果となったり、
逆に歌への純粋な注目、素直な評価を妨げてしまう
のではないか
そして私の場合、それが後者
に近く作用してしまったのではないかということだ。


私はもし当時に再び戻っても、
やはり同じような反応を示してしまうだろうと思う。
私のような人間は、これくらいの歳にならなければ、
天地真理さんが歌った歌の多くについては、
その本当の価値には気付けなかったのではないか、と今では開き直っている。
実にわかりやすい、アイドルとして絶大な人気を博していたものが、
実は年を重ねないとわからない、あるいは言い出せない
要素をも含んでいたのではないか。
いやむしろそれは、世間体や既成概念や俗物根性に縛られた、
曇った精神の者には見えなかった、言えなかっただけで、
私が先に”子供”と呼んだ、当時小学生だったような方々や、
純粋にその歌を聴こうと耳を傾けた方々の心には、
その良さが当時から理屈抜きできちんと届いていたのだろう。

それでも、今頃になってそれらを評価できることを卑下するよりは、
胸を張り、遅れても理解できて良かったと満足すべきことのように、今は思える


1972年の紅白歌合戦で、この歌を歌う天地真理さんの姿を今になって見たときに、
それを堂々たるもののように感じてしまう理由の一つは、
私がようやくこの歌を、最優秀歌唱賞に値すると思えるに至ったことにあるのだろうと思う。
天地真理さん自身が、当時すでに、
Joan baez やマーサ三宅さんから脱却して、
私が
前項に書いたような歌唱表現の高みに到達したことを、
実は心のどこかで自覚していたが故の態度ではなかったかと、私自身が思いたいのだ。

2012年11月16日 (金)

天地真理70 ひとりじゃないの (5)歌い方

編曲は異なるものの、
同じ「ひとりじゃないの」を歌う3種類のスタジオ録音を聴くことで、
天地真理さんの
歌い方の変化がよくわかる。
それは驚くべき変化、といってもいいだろう。

正確な録音順は知らないが、恐らく
1.「ひとりじゃないの」歌詞違い版(1972年5月1日カセットテープ発売、編曲:森田公一)
  (”歌詞違い版”とは”すてきなことね”が”すてきな旅ね”と変わっていることを指す)


2.「ひとりじゃないの」アルバム版(1972年6月1日LP発売、編曲:森田公一)

3.「ひとりじゃないの」シングル版(1972年5月21日シングル発売、編曲:馬飼野俊一)

の順だと思われる。
1.と2.はほぼ同様な歌い方だが、3.は大きく異なる歌い方となっている。
また2.には3.につながる細かい変化の兆しがある。

まずテンポだが、「あなたが」から最後の歌い終わり「どこまでも」までの長さが
歌詞違い版とアルバム版は2分56秒であるのに対し、
シングル版は3分06秒である。
全体で10秒ほどの差であるが、
歌い出しの印象でわかるように、歌詞違い版とアルバム版はキリッとした感じ、
シングル版はゆったりとした感じを受ける。
このゆったり感は、この歌の情感や天地真理さんの歌唱の良さを
さらに引き出した要素の一つと思われる。

聴き取れる歌い方の違いは次の3点だ。

(I)声の質が変化した
まず次の3つの声を聴いてもらいたい。
  ”すこしわけてくれて” 歌詞違い版

  
  ”すこしわけてくれて” アルバム版
  

  ”すこしわけてくれて” シングル版
  

”くーれてー”の部分の歌声に、
歌詞違い版とアルバム版では独特の
艶のようなものを感じる響きがある一方、
シングル版ではそれが薄れ、話し言葉的
な自然な感じの発声になっている。
この、軽く声を出した時に出る、独特の艶のような響きは、
それまでの「水色の恋」、「ちいさな恋」や、アルバムの中の歌声にも聴かれ、
独特のムーディーな雰囲気を出していたように思う。
これがこのシングル版を境に薄れていった。


これを声の周波数分析(声紋)で見てみると次のようになっている。
Voiceprint_kurete_2

  (図をクリックすると拡大表示される)
図中の赤い
印が明らかに異なる部分である。
歌詞違い版とアルバム版の声紋である左2つには
”くー” での3~4kHz成分、
”れ” での3~6kHz成分、
”てー” での
3~4kHz成分
がはっきり出ているのに対し、
右のシングル版では薄れてほとんど見えない。
同じ音程だが、
歌詞違い版とアルバム版の方が声が高く感じられるがあるのはこのためだ。
これは、
シングル版ではこの部分でほとんど声に力を入れておらず、語りかけるように歌っているためでもある。
この周波数領域での倍音は、これ以降であっても、
声に力を込めると
見事にはっきり出ることは以前の分析で出ているが、
艶のように聴こえる初期の時期の声の特長は、さほど声に力を入れていなくとも、
このような4kHz台の成分がくっきり出るところにある。
この響きは他にも、例えば”肩越
しーにー”の”しーにー”の部分にも
特徴的に聴かれる。


次に歌詞違い版とアルバム版では
声が喉から鼻へ共鳴するイメージであったのに対し、
シングル版では喉から喉の奥の方、おなかの方に共鳴するイメージの声に変わった。
視覚的に言えば、ハの字眉で、口を縦に開けて歌うイメージから、
笑いながら、口をより大きく横に開けて歌うようなイメージに変わった。
これに伴い、歌詞違い版とアルバム版では、以前「エンマコオロギの鳴き声」のようと形容したような、
中・高音域が軽々と心地よく響き、
それが震えるような小刻みなビブラートにつながっていっていて、
全体的に軽やかでキリッ
した風である。
一方、シングル版では、声の低い方に厚みが増し、
より暖かみや迫力が感じられる声になってきている。
ビブラートは後のものに比べればまだ小刻みだが、
力を抜いていく時に震えるように揺れる感じのものから、
声に力のある状態のまま、少しゆったりと揺れる感じに変わりつつある。
歌としては、語りかけるような優しい雰囲気があるが、
声自体としてはどこか
どっしりとした 、落ち着きのある雰囲気に変わってきているように感じる。

この
喉から鼻へ共鳴する声と喉からおなかの方に共鳴する声の違いを視覚的に示すのは難しいが、
上記の4kHz成分が良く出ることと
関連があるように思われる。

歌い出しの”あなたが”の”あ”の部分を聴き比べてみてもらいたい。
シングル版の方が、よりどっしりとしていて厚みや暖かみがあり、
よりおなかから声が出ているように感じられないだろうか。

この部分の声紋を見てみると、

Voiceprint_hitorijanaino_a_3
(図をクリックすると拡大表示される)

左側の歌詞違い版では、右のシングル版に比べて3kHzから4kHz付近の声紋が
白く濃く出ている(図中の赤丸部分)。
これは声の高い方の成分が、より強く出ていることを示す。
一方右のシングル版の方は、2kHz以下の声紋が、より白く濃く出ている。
より長くて径の大きい気道(喉からおなかにかけて)に共鳴した音のように思われる。


なぜこのように変化したのか、その理由は定かではないが、
年齢的な変化とともに、
頻度の増えたステージ等で、大音量の伴奏や聴衆の大歓声に
負けずに声を出そうとする中から、よりおなかから声を出そうとした結果であったり、
その過程で高い方の声をつぶしてしまった結果である可能性もある。

この曲が含まれるアルバムの中に、以前紹介した「好きだから」という曲があるが、
発声法からすると、これが「ひとりじゃないの」のシングル版に近い印象を持つ。
歌のタイプが違い、歌い方もかなり違うが、
声をおなかから出しているイメージが明確だ。
一方、以前にあった中・高域での、軽々と出る艶のようなものは聴き取れない。
同じように見事に声が出ている、1stアルバム中の「なのにあなたは京都にゆくの」の
”この私の愛よりも”の部分
と比べても、
そちらは鼻や頭の方からの声で、「好きだから」はおなかからの声、
というイメージ
の違いが感じられる。
また、「好きだから」の歌詞2番の”しろいー”の”し”における声のかすれが、
(一種のオーバーヒートのようで、一瞬声がつぶれそうな
かすれ”)
「ひとりじゃないの」シングル版の歌詞2番ならびに3番の
”いつまでも”の”いつ”における一瞬の声のかすれが、
声の状態の類似性を物語っている。
この2つの歌はおそらく同時期に録音されたものではないだろうか。
アルバムのために「好きだから」のような歌を何度も歌う中で、
自然と会得した声の出し方であるのかもしれない。


  ただ「好きだから」ほど開放的に、声をストレートに出す歌い方は、
  スタジオ録音のアルバムではその後あまり聴かれない。
  歌の種類に依存してそうなったと思われるが、
  あえて言えば、1976年のライブアルバムでの「若葉のささやき」の一部などで
  それを思わせるような開放的歌声が聴かれるように思う。
  

録音時期のバラツキによるものと思われるが、
このアルバムには上で示した2種類のイメージの声、
あるいはその過渡期の声、による歌が混在している
よう思う。
これらを聴くと、この時期を境に、
中・高音域成分での艶のようなものは薄れきていった一方、
中・低域成分の厚みやふくよかさ、伸びのような響きは、
むしろ増していった
と感じられる。


(II)明るくやわらかいニュアンスが豊かになった
これはひこうき雲さんがすでに指摘されていたことだが、
シングル版ではニュアンスが非常に豊かになった。
これは劇的変化といってもいい。
それまでもひたむきさを感じさせる、非常に好感のもてる歌唱をしていたが、
それに明るさや優しさの表現が一層際立って加わった感じだ。

歌詞違い版
とアルバム版では、
例えば”すてきなこと
ねー”ふたりでゆくってーのように、
言葉の終わりの余韻を音符の長さにほぼ忠実に伸ばしていく歌い方が
随所に聴かれる。
一方、シングル版では、メロディーとリズムにきちんと乗りながらも、
言葉としてより自然に、
余韻を短くしたり、
時にささやくように、時に微笑みかけるように、

語りかけるような歌い方が、非常に効果的に入るようになった。

それが、この歌の「語り歌」的な特質と相まって、
素晴らしい雰囲気を出すのに成功したと言えるだろう。


  細かく聴くと、歌詞違い版に比べてアルバム版では、
  語りかけるようなニュアンスが感じられる部分もあり、
  シングル版の歌い方に近づいていると感じられるところもある。

この言葉の終わりの余韻を、震えるようなビブラートを伴いながら音符の長さにほぼ忠実に伸ばしていく歌い方は、
天地真理さんが好んで聴いていたという Joan Baez という歌手の歌い方に
通じるもの
あるように思われる。
歌の種類が違うのと、 Joan Baez は基本的にはファルセットでなく、
言葉の初めからビブラートがかかる歌い方であるという違いがあるため、
真似をしている風には聴こえないが、
歌詞違い版とアルバム版以前の歌い方には、その歌い方の影響が聴いてとれる。


別の観点として、声紋で見た変化の例としては、下図の矢印部分のような、
言葉の言い始めの部分に典型的な違いがみられる。


Voiceprint_hitorijanaino_mari_5
”旅のはじまり”の”まりー”の部分の声紋だが、
”ま”から”り”に切り替わった部分(図中の赤矢印部分は”り”の発音の先頭)で、
左の歌詞違い版では波形が上に一旦オーバーシュートしてから
一定の音程に収まっているのに対して、
右のシングル版では、オーバーシュートすることなく、
下から丸みをもって目標の音程に達している。


このような違いは、上で紹介した”すこしわけてくーれてー”の
”くー”の部分(図中の緑○印)にもある。
左の歌詞違い版とアルバム版では、この部分の声紋が2こぶラクダのように
2山になっているのに対し、
右のシングル版では2山にならず、単調に音程が上がって目標に到達している。

これらは音程の細かいうねりであって、楽器で言えば装飾音のようなものだが、
微細なこぶしのようなものともいえるだろう。

歌詞違い版とアルバム版の方が、言葉一つ一つがキリッとした、
輪郭のはっきりした感じに聴こえ、
シングル版は、どこか柔らかみのある、優しい感じに聴こえる理由の一つが
ここにあるのではないか。


このようなキリッとした歌唱法は、
デビュー前の一時期、ジャズ歌手マーサ三宅さんに歌のレッスンを受けていた影響ではないかと思われる。
デビュー初期にジャズカルテットをバックに「水色の恋」を歌った時も、
似たようなキリリとした感じを抱いたが、
これも、同様な要素によるとも思われる。

逆にいえば、このシングル版「ひとりじゃないの」で、
彼女が影響を受けた2人の師匠、Joan Baez とマーサ三宅さんから脱却して、
新たな、自分なりの歌い方にたどりついた、とも言えるのではないだろうか。


の歌での際立って変化した、ニュアンスの付け方を個別に見ていくと、
まず1番の歌詞”そのときがふたりの旅のはじまり”の部分において、
その違いが鮮明である。
”ときが”の部分は、ポルタメントを大きめに使って、
優しさのようなものを、
”ふたりの”の”りの”の部分は、ビブラートを非常にデリケートに使って
幸福感のようなものを、実に効果的に演出している。
”ひとりじゃないって”の部分は、歌詞違い版ですら他の歌手に比べ明るさが鮮やかだが、
シングル版では、さらに喜び感も加わった
うな表現だ。
”すてきなことね”では少し声の力を弱め、
しかし決して甘えるような媚びるような響きではなく、

どこか子供たちに語りかけるように歌っていて、
そこには”ひとりじゃない”ことに対する憧憬感のようなものが漂う。
歌詞3番の、”わたしが朝風に”の”朝風に”の部分では、
元の符点音符を3連符の連なりに変え、絶妙のマルカートをかけたような表現が、
陶酔的な幸福感を醸しだす。
これらの一連の表現は、恐らく他のどんな歌手でもまねできない、
実に輝かしく見事なものだと思う。


(III)歌詞の世界に没入した構成感が鮮やかになった
上記(II)に重なるが、この歌詞の意味を素直にとらえ、
言葉のニュアンスと声の力の変化の前後関係を絶妙に構成することで、
決して大げさではないが、その情景や意味が、よりはっきりとわかる形で、
描写できるようになった。
歌詞に関連した部分で述べた仮定法的部分、
”あなたが”から”涙をかえしたら”の部分の、語りかけ、ささやくような歌い方から
”そのときがふたりの”の部分の幸福を予感させる表現を経て、
”旅のはじまり”の力強さに至る、歌いあげ方の手順のうまさ。
また””ひとりじゃないって”からの一言一言のニュアンスが
”草原も輝く”と”いつまでもどこまでも”につながっていく表現の連なり方と盛り上げ方、
歌詞2番の”あなたの濡れた頬 わたしの燃える頬”の
声の力強さの対比の素晴らしさ。
これらは「不世出の名歌手」の項で、「小さな日記」を例に挙げて述べた「構成美」に
まさにつながるものだ。

歌詞違い版からシングル版に到達する間に何があったのか。
シングル版を作るにあたって編曲者も変え、
歌へのイメージ作りもいろいろと話し合われたはずである。
そんな中からこのような輝かしい歌唱が生まれたのだろうが、
これは、この人なりの歌唱力の捉え方であり、
これを世間やマスコミが認めようと認めまいと、
これ自体が、先記のような世間的表彰にも勝る、輝かしい成果であると言えるのではないか。
私が今審査員であるならこの歌に、文句なしに最優秀歌唱賞を与える。

2012年11月 9日 (金)

天地真理69 ひとりじゃないの (4)曲

「ひとりじゃないの」は森田公一さんの作曲である。
以降の天地真理さんのヒット曲の多くをこの方が手掛けることになる。
森田公一さんは、前の年の1971年に、
松尾ジーナという人にデビューシングル「気ままなジーナ」(1971年)という曲を提供し、
作曲家として初めてヒット(小ヒットと表現されている)させたとのことだ。
その後同じ歌手に「月影のメロディー」(1972年5月)という曲を提供していて、
いわゆる「アイドル歌謡」の最初期に関わった作曲家でもあったようである。

  上記の「気ままなジーナ」を聴くと、なるほど「アイドル歌謡」とはそういうものか、
  と思わせられ、1970年代のアイドルたちが歌ったいくつかの曲に、
  その類似性を感じることができる。
  だが私は「ひとりじゃないの」を「アイドル歌謡」の仲間に数えるのには抵抗がある。
  女性コーラスによる、清純さや幼さを思わせるフレーズが入っているため
  そのような方向を狙ったものでもあることを否定はできないが、
  歌詞の味わいや歌い方が、「アイドル歌謡」と呼ぶには異質に感じられるからだ。
  あえて言うなら天地真理さんの場合、この後の「虹をわたって」からの数曲が
  それにあたると言えなくもないが、
  他の正真正銘の「アイドル歌謡」に比べると、
  それらにしても、どちらかといえば「童謡」に近い趣を感じてしまう。

また同時期に、和田アキ子さんの「あの鐘を鳴らすのはあなた」(1972年3月25日発売)
を作っている。
これはご存知のように全く毛色の違う曲であって、
森田公一さんの、作曲家としての器の大きさのようなものを感じるのだが、
久世光彦さんの歌詞に曲をつけることや、
CBS・ソニーの「1位獲得アーティスト」の曲を手掛けるということは、
当時のこの方の立場からすれば大抜擢であったのではないか。


この歌は、歌詞が始めにあって、それに曲をつけた典型のような曲と思われる。
森田公一さんはピアノを弾くので、作曲は通常ピアノを弾きながら行っていたと考えられるが、
この歌は、
小椋桂さんが言っていた「語り歌」なのではないだろうか。
つまり歌詞を何度もつぶやいていくうちに自然と抑揚がついて、
曲ができていく、というものだ。
実際この曲は、出だしの3小節がハ長調で言えばCコード(トニックコード、ドミソ、原曲のコードは
A♭)一本から動かしようがなく、

  オリジナルカラオケを聴くと、この部分でベース音はA♭のままだが、
  微かに聴こえるリズムギターがA♭→A♭6→A♭M7→A♭6→A♭と動いている。

部分でも、コード進行の観点では、素人目に見てなかなかすっきりいかないメロディーラインになっているように感じる。
しかしこれに歌詞がつくと、そのような問題は感じられない、
歌詞に合った、心地の良いメロディーとなっていると感じられる。
これは私などから見るととても不思議で、驚異を感じてしまうのだが、
森田公一さんはその後の真理さんの歌で、
「若葉のささやき」や「思い出のセレナーデ」など、
コード進行
だけを取り出しても魅力的な曲も作っていて、
作曲家としての大変な柔軟性と実力を感じざるを得ない。

一方編曲に関しては、同じスタジオ録音の「ひとりじゃないの」でも、
アルバムの方に納められたものと、シングル版とで編曲者が異なる。
私にとっては、当時何度も聴いた、ベースギターからトランペットへと続く
シングル版(編曲:馬飼野俊一)のものが頭に焼き付いているのだが、

森田公一さんによるアルバム版の編曲には、
なるほどピアノ弾きだと思えるような、キラリ
光るものが感じられる。

このアルバム版とシングル版の違いはそれだけでなく、
天地真理さんの歌も別テイクであり、
その間に歌手としての劇的な変化が聴いてとれる、実に興味深いものになっている。
これに関しては、やはりひこうき雲さんの各曲解説のHP
大変秀逸な解説が既にあり、それと考えがまさに重複する部分もあるが、
私なりに次にまとめてみたいと思う。

2012年11月 2日 (金)

天地真理68 ひとりじゃないの (3)歌詞

「ひとりじゃないの」を作詞した小谷夏さんは、久世光彦さんの別名で、
天地真理さんが出演した「時間ですよ」というドラマの演出・プロデューサーを務めた方である。
この方は天地真理さんにいくつか、とても印象に残る歌を提供している。
そして明らかに、演出家として出会った天地真理という人への理解と、
ひとかたならぬ思い入れのようなものが
天地真理さんに提供した歌詞のベースにあるように感じられる。

この歌をテレビなどで何度も聴いていた当時、
私自身がこの歌詞をどう思っていたのか、
残念ながら思い出すことができない。
恐らくこの歌詞をきちんと味わう精神的能力も、余裕もなかったのだろうと思う。
しかし今になってこの歌詞を読んでみると、
その素晴らしさを理解することが出来るように思う。

「あなたが」で始まり、
「そのときがふたりの旅のはじまり」から「いつまでもどこまでも」
につながる中で、1番から3番まで3回とも繰り返される言葉が、
この歌のテーマを印象付けるだけでなく、構成的な安定感を与えている。
そしてその間で入れ替わって表現される言葉は、
人の心理を、直接的表現でなく、
その人が見せる行動の断片で表現する手法をとっていて、
その手法自体が、どこか奥ゆかしい、上品な感じをもたらし、
好ましく感じられるだけでなく、
表現された行動の一つ一つとその関係性から、
その背後にある状況や心の動きに思いが至り、
ある種の絵画を見るようで、いろいろなことを想像させられる。
とりわけ3番の歌詞、「夕焼け」「朝風」は何を意味しているのかを考えると、
いつも味わい深く感じられてしまう。

またこの歌は、部分的な言葉からの印象の多彩さだけでなく、
歌全体としてのイメージ、解釈自体もを広げて味わうことができる典型例だともいえるだろう。
この歌を、恋愛中の男女2人の間のことに限定して鑑賞するだけでなく、
より広い人間的なつながりに拡大して考えることができる。
想像が限定されないよう周到に言葉が選んであるともいえるだろう。

この曲が東日本大震災の復興応援歌として使われることを知って
私は正直なところ、少々不適切に思われる方がいるのではないかと危惧した。
この震災で肉親も建物も土地さえも失って、本当にひとりになってしまった方も少なくないわけで、
その方々が、「ひとりじゃないの」というタイトルや、
「ひとりじゃないってすてきなことね」というフレーズを聴いてどう思うのか、と考えたのだ。
この歌詞にそのような危惧を救う望みがあるとすれば、

「涙をかえしたら」「傘をさしかけたら」「約束をしたなら」にある、
それぞれの行動を示す言葉の最後にある
「したら」「かけたら」「したなら」などの仮定法表現である。
涙をかえした”から”今はひとりじゃない、ともとれるが、
もし涙をかえして”くれたなら”ひとりじゃなくなる、ともとれる。
つまりこれは、今ひとりじゃない、のではなく、
今はひとりで寂しくとも、何かのきっかけでひとりじゃないと感じ
られる「そのとき」が来る、
という意味での応援歌として聴いてもらえるのではないか、ということだ。

震災で心に傷を負った方々のことを、私のようなものが本当に理解できたり、
安易に共感の意を示したりできないのではないか、という気持が私にはあり、
この歌が上のような意味で応援歌になるはずだと押し付けることはできそうにない。
ただ、上記のような拡大解釈をしてみると、
この歌の価値がさらに大きく感じられることは確かだ。

私はひこうき雲さんが久世光彦さんのエッセイを紹介されているブログを読み、
久世さんが天地真理さんに「寂しい陰りのようなもの」を見、
「それが天地真理というスターの魅力じゃないか」
と感じられたという経緯があったことを知ったが、
上記のような拡大解釈を考えてみると、
久世さんが天地真理さんにこの歌詞を捧げた気持ちも、
そこにあったかもしれないという思いが込み上げてくる。

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