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2012年11月23日 (金)

天地真理71 ひとりじゃないの(6) 偏見

さて一方で、悲しいかな私は当時、
最優秀歌唱賞に値すると考えたりするほど、この歌「ひとりじゃないの」を真剣に聴いていなかった

という苦い思いが横たわっている。
なぜ当時私自身が、そこまでこの歌を、
またこの後に続く天地真理さんの歌自体を当時、今ほど評価できなかったのか。

当時私は、テレビで見たりはしていたものの、
アルバムを買うでもない、ブロマイドを買うでもない、
コンサートに行くでもない
、主演の映画を観るでもない、
ましてや当時のファンクラブに入るでもない、
天地真理さんのファンとはとても呼べない存在だった。
シングルレコードを2枚ほど買った程度だ

しかし、テレビやラジオで聴いたいくつかのヒット曲は強く印象に残っていて、
どこかに何かが引っ掛かっていて、
ずいぶん後になってYouTubeでいくつかの歌を聴き、
ひっかかりの正体のようなものを見出したような気になって、
それまで何かが邪魔してアルバムを1枚たりとも買おうとしなかったにもかかわらず、
「プレミアムボックス」というCD全集を手に入れて聴くに至り、
ようやくその歌の本当の良さを認識するまでになった。

「プレミアムボックス」を聴いた時点で、一部のヒット曲を除いて、
かなりの曲を始めて聴くといった有様だった。

 

なぜそうなったのかを今考えてみると、二つの理由が思い浮かぶ。

それは
 1.大衆に人気がある、アイドルである、子供に人気がある、ということへの偏見
 2.明るく、優しく、楽しくなる歌への偏見
である。

これらの偏見は、そのまま、日本レコード大賞歌唱賞などの、
歌謡曲における”歌唱力”への偏見にも通ずるものではないだろうか。

アイドル的まぶしさは、一方でその歌そのものへの、私の注意を損ねた。
子供にも人気があることを、今ならむしろ良い方に評価できるが、
当時の青年期の私は、それらの状況を見ただけで、
無意識のうちにそれが一段低いもの、
価値ある芸術からは遠いものと思ってしまった。

音楽において、平坦なものよりはドラマティックなもの、
オプティミスティックなものよりはぺシミスティックなもの、
出会いよりは別れ、
そんなものの方に価値を感じようとしていた。
本当に理解し、共感できたかどうかは別として。
明るく楽しいものの、芸術としての価値から目をそむけていたのだ。
言ってみれば、天地真理さんの歌に対して、
いや天地真理さんに対してすらも、真正面から向き合うことを避けていたと言えるのではないかと思う。

今では、幸福への憧れ、前向きさ、優しさ、といったものが、
底抜けに明るいだけのものから生まれるのではなく、
寂しさとか、悲しさとかいったものと無関係に成立するものでは必ずしもないことも理解でき、
それらにこの上ない価値をも感じることができる。
そのようなものを含む歌の価値に、
少なくとも久世さんは気付いていたのだろうが、
私は当時気付いていなかったのだ。

年間アルバム売上が当初ほどでなくなったことをことさら取り上げ、
その理由を考えようとする思いの中には、
当時アルバムを買い控えた人たちのいくらかは、それは決して多数派ではないとしても、
私と同様な心理もあったのではないかという、勝手な疑いがある。
私自身、当時からそこまで冷静に自分の心理を分析し
、自覚していたわけではなく、
今思い返してみての、いわば言い訳的な理由づけでしかないようにも
思う。
もちろん私は、天地真理さんの映像的要素や、そこからにじみ出てくる人柄的要素を否定するつもりはない。
歌に表れてくる魅力が、その歌手の人柄などの深層部分にも依存することを認めるのは、
「不世出の証③」の項で述べたとおりだ。
しかし歌手の
映像的要素や人柄的要素が特徴的であればある程、
それが、その時の聴き手の精神状態
に応じて、
何らかの先入観を与えたり、判断基準を狂わせたりする、
ひいては歌手という断面においては、大いに歌の魅力を高める相乗効果となったり、
逆に歌への純粋な注目、素直な評価を妨げてしまう
のではないか
そして私の場合、それが後者
に近く作用してしまったのではないかということだ。


私はもし当時に再び戻っても、
やはり同じような反応を示してしまうだろうと思う。
私のような人間は、これくらいの歳にならなければ、
天地真理さんが歌った歌の多くについては、
その本当の価値には気付けなかったのではないか、と今では開き直っている。
実にわかりやすい、アイドルとして絶大な人気を博していたものが、
実は年を重ねないとわからない、あるいは言い出せない
要素をも含んでいたのではないか。
いやむしろそれは、世間体や既成概念や俗物根性に縛られた、
曇った精神の者には見えなかった、言えなかっただけで、
私が先に”子供”と呼んだ、当時小学生だったような方々や、
純粋にその歌を聴こうと耳を傾けた方々の心には、
その良さが当時から理屈抜きできちんと届いていたのだろう。

それでも、今頃になってそれらを評価できることを卑下するよりは、
胸を張り、遅れても理解できて良かったと満足すべきことのように、今は思える


1972年の紅白歌合戦で、この歌を歌う天地真理さんの姿を今になって見たときに、
それを堂々たるもののように感じてしまう理由の一つは、
私がようやくこの歌を、最優秀歌唱賞に値すると思えるに至ったことにあるのだろうと思う。
天地真理さん自身が、当時すでに、
Joan baez やマーサ三宅さんから脱却して、
私が
前項に書いたような歌唱表現の高みに到達したことを、
実は心のどこかで自覚していたが故の態度ではなかったかと、私自身が思いたいのだ。

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コメント

真さん

共感を持って読ませていただきました。
偏見の1,2は私も同じでした。大衆的なものは軽蔑し、深刻で悲劇的なものが価値があると思っていました。

それを覆したのは「魔笛」の「パ、パ、パ」でした。パパゲーノの深い絶望に続くこの二重唱は、歌詞は「パ、パ、パ」しかない実に単純なものにもかかわらず湧き上がってくるような生のよろこびに満ちていました。そのよろこびは私の心を震わせ、人が生きることの豊かさを感じさせてくれたのです。
この経験によって、私がもともと天地真理さんの歌から感じとっていたものがはっきり意識でき、真理さんのうたに対する私自身の評価に確信が持てるようになったのです。

しかしこういう偏見は真さんや私だけでなく、マスコミ関係者や音楽評論家(と称する人たち)を含めて、当時の大人たちには一般的だったと思います。それが真理さんのうたへの誤った評価につながっていたのでしょう。

追伸です

このテーマ、実はもっとふれたいこともあったのですが、コメントでは長くなりすぎるので、私のブログで取り上げさせていただきたいと思います。よろしくお願いします。

ひこうき雲さん

コメントありがとうございます。
私の場合は、メンデルスゾーンのピアノ曲「無言歌」のいくつかをホロヴィッツが弾いていて、
その中の、「春の歌」と「エレジー」という曲で、長調の、幸福感溢れる音楽の、
芸術としての素晴らしさを気づかせてもらった気がします。

それと、以前にも書きましたが、
ひこうき雲さんがHPで書いておられた、「恋と海とTシャツと」についての記述内容が、
私の目を見開かせていただいた気がしています。

「もっとふれたいこと」がおありとは楽しみです。
ひこうき雲さんのブログで取り上げられるのを期待しております。

こんにちは、bellwoodです。
私が天地真理さんのファンになった経緯は以前お話した通りで、おっしゃるような偏見のようなものはほとんど無かったのですが、主演映画で目の当たりにした彼女のルックスやキャラクターの魅力にはやはり抗しがたいものがあり、中学生の私が「きれいなおねえさん」として強い憧れを抱いていたことは間違いありません。
もちろん天地真理さんの歌そのものも熱心に聴いていたのですが、昨年、YouTubeで真理さんを“再発見”してから改めて聴き直してみると、当時感じていたよりもはるかに奥深い魅力があることに気付かされて驚きました。それが当時は“熱病”に妨げられていたせいなのか、自分が大人になって多少なりとも鑑賞力が高まったからなのかは判然としませんが、恐らくその両方なのだと思います。

しかし当時の音楽賞(レコード大賞/歌謡大賞)の審査においては、アイドル歌手に対して明らかに偏見があったという印象が残っています。アイドルには新人賞は与えられても、歌唱賞や大賞ははじめから対象外という雰囲気が強くありました。天地真理さんと同世代の歌手の中でも、たとえば小柳ルミ子さんのようないわゆる歌謡曲/演歌寄りの、大人の支持が高い(=鑑賞に堪える)歌手は歌唱賞や大賞の対象となりましたが、若年層の支持が中心のポップス系のアイドル歌手は音楽的に一段価値の低いものと見られ、絶大な人気があっても大衆賞などでお茶を濁されていました。
業界内で全く別の力学が働いていたのかどうかは分かりませんが、少なくとも視聴者の立場からはそう見えました。70年代の前半までは、こうした傾向が強かったように記憶しています。

bellwoodさん

コメントありがとうございます。
bellwoodさんが「彼女のルックスやキャラクターの魅力」を浴びつつも、
当時からアルバム等で「歌そのものも熱心に聴いて」おられたことには敬服いたします。
ただ、最近になって彼女の歌に関して「当時感じていたよりもはるかに奥深い魅力があることに気付かされ」たのは私も同様で、
それがこのブログの動機になっているのであります。

小柳ルミ子さんについてあえて言うなら、「歌にかけている」という迫力が他の歌手より勝っていた、
ということもあるのではないでしょうか。
そのような方々が当時歌唱賞をとっていたことの方については、とやかく言うつもりはありませんが、
後になると、私には理解できない歌唱賞もあるということの方が、
納得いかない思いがあります。
それすらも、「歌にかけたんだ」という姿勢を本人と事務所とレーベルとが一体となってアピールした結果なのかもしれませんが。

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