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2012年4月

2012年4月27日 (金)

天地真理63 ちいさな恋(3)

「ちいさな恋」の歌詞について、
自分は最初からそう思っていたとおっしゃる方もおられる、
いや大半の方が、当たり前にそう思っておられた恐れがあるのも否定できないのを承知の上で、
あえて恥を忍んで記しておく。

  ”初々しさ、かわいらしさをアクセントとしているようでいて、
   また印象的な言葉を散りばめているようでいて、
   それらの脈絡が今一つつかみにくい、
つぎはぎ細工の体をなしている”

と受け取っていたこの歌の歌詞について、

妻のつぶやきが私に理解の糸口を与えてくれた。
たまに会えないのは、毎週会っている日曜日のことではないかというものだ。


  たまに会えない日もあるけれど
  それでもわたしは待っている
  ひみつの約束指切りは
  今度の日曜青い空
  ちょっとこわいの恋かしら
  赤い夕陽が今沈む
  (繰り返し)

  きいてみたいの一度だけ
  それでもわたしは黙ってる
  みつめる目と目はかくしても
  かくしきれないこの気持
  涙ひとつぶ恋かしら
  光る星空影ぼうし
  (繰り返し)

  なぜかゆれてるバラの花
  はずかしそうな恋の歌
  (繰り返し)

そう言われればそうかもしれない。
そして出だしの腑に落ちなさが、この歌全体に脈絡を感じる意欲を遮断していた状態から一転して、
この糸口は、私の頭を、素直にストーリーを追うように促してくれた。

まず毎週日曜日に会う約束をしていた。指切りをして。
そしてその日曜日には、だいたい会えるのだが、たまに会えないこともある。

それでも待っているのだ。
普通なら、たまにしか会えないのに待っている、となるはずの文脈だが、
毎週会う約束しているはずなのに、会えないこともある、それでも待っている、
という文脈なのだろう。


  (再考後記)
  毎週約束しているというのは、強引過ぎる解釈かもしれない。
  むしろ、次に会う約束をしている、しかしその約束をした日に会えないこともある、
  それでもその約束の日を待っている、
  という方が自然な解釈かもしれない。
  そして今回の「ひみつの約束」は「今度の日曜」だと、続けて告白していく。

  (P.S.2)
  「たまに会えない日もあるけれど それでも私は待っている」
  の部分の解釈について、
妻のつぶやきが私に理解の糸口を与えてくれたと書いたが、
  上に書いたものは、妻のつぶやきそのものというよりは、
  そのつぶやきによってひらめいた、私のある考え、と言った方が実際のところだ。
  思い返すと、妻の解釈はむしろ、
    よく出会える場所がある。
    例えばわたり廊下とか、朝の通学路とか、帰り道とか。
    そんなところを通ると
き、淡い期待に心が浮き立つ私がいる。
    あなたに会えるかもしれないと思うだけで、私は幸せな気持ちになる。
    約束しているわけではないから、会えないこともあるけれど。
  というものだったように思う。
  今度の日曜の「ひみつの約束」は、だから、そのような日々の出会いというよりは、
  もっと特別なもの、ということなのだろう。
  
今思えば、私はどうも「それでも私は待っている」ことと「今度の日曜日」とを
  無理に繋げようとしていたのであって、それにこだわらなければ、
  これもひとつの、なるほどと思える解釈と感じられる。

  
  
この部分は必然的に短調である。


「今度の」というからには、
日曜より前の日に期待を持って佇む主人公がいる。
「今度の日曜」が「青い空」となることを祈りながら、
あるいは心も天気も「青い空」となることを必然と想像しながら、
「ちょっとこわいの恋かしら」と、希望と期待を持って自分の内面を反芻するうちに、

その日も暮れて「赤い夕陽が今沈む」。
期待部分は長調で、そして沈む夕日が、日曜が近づく喜びを湧き起こさせたかと思うと、

同時に心に微かな揺れを引き起こす。
ここで再び短調に切り替わる。


その揺れは、「きいてみたいの...」と、期待と不安と、
そして隠しきれないけれども内気に黙っている、交錯した心情の吐露となって表れる。
そして、あたりは星空となり、星空に相手の面影(影ぼうし)を探している、

とでもいうような情景が想像されてくる。

こうなってくると、最後の2フレーズにも、
何か辻褄の合う意味付けができるのではないかという期待が後を引く。
バラの花言葉は愛、恋、美、幸福、乙女、秘密、無邪気、清新、なのだそうだ。
これらの花言葉は、いずれもこの歌詞全体の印象につながっていく。
「なぜか」とわざわざ付け加えているのとは裏腹に、
というよりはむしろ、「なぜか」と疑問形式で言いながら必然的予言や宿命を示すという、
ドラマのナレーションなどでたまに見かける表現方法を使って、
この揺れている「バラ」は、
この内気な主人公の、これから先の人生への希望や励ましを象徴するものと
受け取りたくなってくる。

こう書いてみるとそれなりに素直な解釈で、
大半の方々が元からそう思っておられたとしても不思議ではないと思われてしまう。
もちろんこの解釈が正解だと言い張るつもりは毛頭ないが、
私の中で、この歌の歌詞が私なりの辻褄の合う一つのストーリーとして成立することで、
この歌が一段腑に落ちるものとなっただけでなく、
この歌詞が、会えている幸せな時の方ではなく、
会えない時の揺れ動く心情を
それに呼応するように長調と短調の間を行き来する曲調との合わせ技で描写している秀逸さ、趣深さのようなものを、
一連の情景変化とともに改めて感じることができ、

この歌の魅力がさらに深まったように感じられる。 

私自身は、饒舌で理屈っぽい割に多くのことに無頓着な人間であるが、
いつも待っていてくれて、内気で、想うことを10のうち1もうまく言い出せない、
そんな人への理解も、心なしか少しは深まったような気がする。

2012年4月 8日 (日)

天地真理62 ちいさな恋(2)

ところで、皆さんはYouTubeにある「ちいさな恋(萌え声バージョン)」というものを聴かれたことはあるだろうか。
私はこれでちょっと面白い体験をさせてもらったので、それについて触れてみたい。

ひょんなことからこれの存在を知り、
まったく予備知識なくその音を聴いた私は、
まず始めの1、2小節を聴いた段階で、久々に心が沸き立った。
もとよりこの歌は、天地真理さん以外では聴けないと考えていたのだが、
”萌え声”というだけあって、かわいらしく、少々人工的な香りがするものの、
とても上手で、真理さんのムーディーな雰囲気を継いでいるかのようなすばらしさを感じ、
こんな歌手が他にいたのか、と色めき立ったのだ。
さらに1、2小節聴き進むと、その歌いまわしのすばらしさに心奪われるとともに、
あまりにきちっと歌われているために、これは人工音声か、あるいはだれかある歌手の声を音響処理したものではないかと思う一方、
ひょっとしたら、という気持ちがこの時点で芽生えた。
そして、恥ずかしながら、”待っているー”、”指切りはー”のビブラートで耳が照合を始め、
”今沈むー”を聴いた時点でようやく確信となった。
これは天地真理さん自身の歌声を処理したものだったのだ。
”萌え声”処理とは、オリジナルの歌を、テンポはそのままで音程を1度(キーをAからBへ)上げたもののようだ。

それと気付いた後、2度、3度と聴くと、
これは明らかに真理さんだとわかるのだが、
全く何も知らない状態で聴いたこの”萌え声”は、

とても面白い体験だった。

  余談だが、私ははじめ、これは声だけを何か処理したものではないかと疑い、
  歌声抽出を試みた。
  この歌は、オリジナルカラオケが発売初期の”プレミアムボックス”にあったため、
  歌入りの音源からこのカラオケ音声を引き算すると、
  容易に真理さんの歌声だけを抽出することが出来る。

  私はかなり遅れて”プレミアムボックス”を購入したため、
  初期の特典であるオリジナルカラオケの原典版を持っていない。
  だが、YouTubeにアップされた、少々音質の劣化したオリジナルカラオケを拝借して
  この引き算処理をしてみると、それでもそこそこの歌声抽出が出来た。
  少々消しきれない、雑音のような伴奏部分が聴こえるのだが、
  真理さんのアカペラを聴いてみるのもいいだろうということで披露しておく。
  
  私はこの一見無駄な作業を行った後、はたと気付いたことがある。
  天地真理さんがア・カペラで歌っているのである。
  すなわち、これに勝手に伴奏をつけて合成すれば、
  自分好みの(テンポやリズムを変えられないので全く好みにとはいかないが)演奏に乗せて
  歌っていただくことが出来るのだ。
  オリジナルカラオケをお持ちの方で、志がある方は、
  試みられるのも面白だろう

さて、この「ちいさな恋(萌え声バージョン)」をアップされた方は、
他の歌手についても”萌え声バージョン”を公開しておられる。
それらを一通り聴かせてもらって気付いたことがある。
天地真理さんが歌う音程が、殊のほか正確なのだ。
完璧とは言わないまでも、ほとんど機械のように正確といってもいいほどだ。
逆に言うと、その他の歌手の方の音程が結構ずれていることが、
この1度音程を上げた処理で、強調されて聴こえるということだ。
これは、以前に声の周波数分析を行ったときに触れたが、
音程が上がるほど、
音程としては同じ1度(の何分の1か)の変化が、周波数の変化としては大きくなる、
ということが効いているのではないかと思う。
つまり、低音での音程変化より、
高音(あまりに高音ではこれもわからなくなるが)での音程変化の方が、
人の耳にとって、変化として感じられやすいためだと考えられる。
誰がどうということを言い出すと差しさわりがあるし、
また、音程が少々ずれていても、それは味となる場合もないわけではないので、
個別の分析はしないが、はっきりいえることは、
天地真理さんの音程が、他に比べて非常に正確に聴こえる、ということだ。
これは私がこの方の歌を聴いていて、
とても心地よく聴こえる一要因として前々から思っていたことなのだが、

この「ちいさな恋(萌え声バージョン)」のおかげで、
図らずもそれを、よりはっきりとした形で認識することが出来た。

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