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2012年1月

2012年1月 7日 (土)

辻井伸行 ジェニーへのオマージュ 作品1

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
年末年始に、ささやかながら、とても気分のいいことがあったので、記しておきます。

このブログでも何度か取り上げたピアニストの辻井伸行さんが、
昨年11月に米国のカーネギー・ホールの大ホールにデビューした。
その模様の一部が昨年12/30と今年の1/1にテレビ放映され、
また、その一部の曲がCDとして発売された。
全曲を収録したDVDは2/8に発売される予定だ。
私はその中のある1曲についてかねてより注目していて、それが予想以上だったのである。

カーネギー・ホールはニューヨーク市マンハッタンにあり、
音楽の殿堂として数々の伝説がある。
ここではポピュラー音楽のコンサートも催されるが、
私にとってはクラシック音楽家の究極の舞台としてのイメージが強い。
Horowitzが長い隠遁生活からカムバックした1965年の演奏会もここだった。
Horowitz自身とても緊張して、1曲目では音を外したり、和音を探したりしたことが、
記録にも残っているし、伝説にもなっている。
ここのステージの床には「
Horowitzのネジ釘」というのがあって、
ピアノが最もよく響く(恐らく弾き手にとって最もよく音が反射してくる)位置がマークされていた。
今もそれが残っているか定かではないが、
同じ舞台に辻井さんが立てたという感慨が、私には強い。

またここは、辛辣な批評で知られるThe New York Timesなどの
マスコミの注目も厳しいことでも知られている。
ヨーロッパのコンサートも、好き嫌い、良い悪いをはっきりと態度で示す、
非常に厳しい雰囲気の場もあると聞くが、
やはりショービジネスの世界では、カーネギー・ホールは最大級の権威の象徴だろう。
そこへ招かれ、デビューできたことはとても価値のあることだと思う。
今回「Keyboard Virtuoso I、II」と題されたこの一連の演奏会には、
そのタイトル表現の大袈裟さだけでなく、
他にPollini、Schiff、Kissin、内田光子などが招かれていることからも、
その栄誉の大きさがわかるだろう。

このコンサート自体のことについて、事細かくここに述べるつもりはない。
私が注目していたのは、そこでアンコール曲として弾かれた
フォスター作曲「金髪のジェニー」(Jeanie with the Light Brown Hair )をテーマにした辻井さんの自作曲だ。

自作曲をクラシックのコンサートで弾くことは、20世紀初めごろまでは特に珍しくはなかったが、
現代ではとても勇気のいることだ。
しかし、それだけでない雰囲気があったようだ。
クラシックコンサートにおいてクラシック音楽以外の曲を弾くことに対する抵抗感が、
非常に強い雰囲気がある場所だ、というのだ。
それはニューヨークや、そこにある音楽の殿堂としてのカーネギー・ホールの歴史的意味が
関係していることでもあるようだ。
ここには、ヨーロッパの貴族趣味に憧れて、それにならって、
あたかもパトロンのようにクラシック音楽を崇める、
といった雰囲気があるということを聞いたことがある。
そして、そのような中で自作曲、とりわけクラシック曲でないモチーフを用いた曲を
弾くということに対する懸念は、コンサート前後で指摘されていたようだ。

日本人にとってフォスターという作曲家はとてもなじみが深いものだ。
唱歌の中に加えられ、学校の教科書などにも古くから取り上げられていた。
その曲調からも、ポピュラー音楽というよりは、準クラシック音楽に近いイメージが私にはある。
しかし米国では明らかにポピュラー音楽とみなされているようだ。


  日本語のウィキペディアでは、フォスターのことを「歌曲作曲家」としてある。
  そして「歌曲」とは「クラシック音楽における独唱声楽曲」とある。
  一方、英語版では{Songwriter」、「father of American music 」とあり、
  1970年に「Songwriters Hall of Fame」に入った、とあるが、
  「Songwriters Hall of Fame」は「National Academy of Popular Music」によるものである。
  つまりポピュラー音楽の殿堂に入ったということのようだ。
  
つまり、ポピュラー音楽をモチーフに使った自作曲は、
カーネギー・ホールでのクラシック音楽の演奏会にふさわしくなく、
聴衆に受け入れられない、という懸念があったようだ。
事実、アンコール曲になって、1階席の少なからぬ聴衆が立ち去ったらしく、
また米国のFaceBookなどでも、公演終了後に、やはり弾くべきではなかったという意見が見られた。
私も、NHKのニュース番組で、この演奏会のどの時点での場面かわからないが、
辻井さんが拍手に応えてお辞儀をしている最中に、
1階席の少なからぬ聴衆が立ち去っていく様子が映っていて、
かなり違和感を感じていた。

私は、カーネギー・ホールに集まった聴衆の中に、
単にクラシック音楽ではないモチーフを使ったということだけで、
その音楽をクラシック演奏会にふさわしくないと考える方々がいても、
あまり気にする気にはならなかった。
確かに、クラシック音楽とポピュラー音楽の安易な融合は、
あまり私の好みの音楽を生んでいないという経験からも、
そのようなことを毛嫌いする気持ちはわからないでもない。
しかし、クラシック音楽自体、元をただせば民族音楽や民衆音楽をモチーフに使っていたはずで、
無条件に排他的な風潮は、snobbismの表れのようでもあり、
今一つ与したくないもののように思えた。

ただ、クラシック音楽を良く聴く私自身が、
辻井さんの最近の自作曲に抱く物足らなさのようなものを、
カーネギー・ホールの聴衆も感じてしまった可能性はないか、
ということが気になっていた。
正直なところ、最近の彼の自作曲には、
安易な饒舌さ、のようなものを私は感じていた。
映画やテレビなどの、外からの要求に合わせ、
周りの性急な期待に応えすぎて、それにおもねってしまったのか、
耳触りは良いが、私としてはあまり何度も聴きたくなるものではなかった。
彼がカーネギー・ホールで弾いた新しい自作曲も、
それに類するものではなかったのか、という、作品の質的なものの方に
懸念を持っていた。
彼がこの夏に、作曲家の加古隆さんに3ヶ月ほど弟子入りしたということが、
NHKの番組の前宣伝にあったが、
たかが3ヶ月程度の弟子入りで会得できるほど、本当の作曲は甘いものではないのではないか、
とも思っていた。

私自身が現場に居合わせたわけではないので、何が本当の所なのかわからないでいたのだが、
NHKテレビで12/30に放映された番組の最後で、
アンコールを弾き終わった後、辻井さんが涙しながら、
聴衆の拍手に感動した様子が映し出され、
また本人から、それに感動し、満足したことが語られていた。
カーネギー・ホールの1階席で、アンコールの前後に立ち去った聴衆がいたことは事実で、
その方々が、このようなアンコール曲が上記のような理由で気に入らなかったことがあるとしても、
私はそれを責める気にはならないし、そこにもそれなりの真実があるのだと思う。
しかし、辻井さんが感じ取った聴衆の反応も、私は真実だと思いたい

すべての、ではないけれど、少なからぬ聴衆が、彼の挑戦を評価してくれたのではないかと思う。

そして何よりも、その番組で流れたこの曲が、私の耳を捉えて離さなかった。
そしてそのすぐ後に、この演奏会の実況録音のCDで、この曲を聴いた。
それは、彼の自作曲の中でもひときわ、私の琴線に触れるもので、
カーネギー・ホールの聴衆がどう思うか、アメリカのファンがどう思うか、などということなど、
一気に消し飛んでしまったのだ。




例によって、テレビで流れた時のこの曲は、映像を伴っており、
またテレビ用のためか、音の録り方が少々荒っぽかったりで、
その音楽そのものは、私の意識の中で、その良さをちらりと垣間見た、といった程度だったのだが、
その後に聴いたCDでのこの曲は、その出だしから、実に心奪われるものだった。
そのメロディー、和声の付け方、そして弾き方、が私の好みに合ってしまったのだ。

この作品は、まずフォスターの曲がほぼそのまま、彼なりの編曲を伴って弾かれ、
次にアルペジオが、このモチーフに付かず離れずの和声で、幻想的に展開されていく。
厳密に言うならば、前半が編曲で、この中間部が彼の作曲ということになるのだろう。
そして再びフォスターのモチーフに戻り、最後に、中間部のアルペジオが、
回想のように現れて終わる。

私はまず、フォスターのこのメロディーが、実に郷愁を誘うような、
何か故郷とか、家族とか、何か温かいもの、失いたくないものをくるんでいるような、
そんな感じを抱かせるものとして、とても気に入ってしまった。
もちろんアメリカの聴衆のためを思って彼が選んだ曲であるのだが、
彼がこのようなメロディーを自作曲のモチーフに選んだことが、
まずもって私にもうれしいことだった。

そしてその編曲部分における和音進行が、適度な濁音を含みながら、
非常に格調高く響いたことも、私の好みに合っていた。
中間部のアルペジオは、必ずしもフォスターのモチーフの変奏形式になっているわけではなく、
それと付かず離れずの関係なのだが、
それも今までの彼の自作曲に時に見られた、
少々歌謡曲的な、パターン化されたコード進行のものというよりは、
むしろクラシック曲で聴かれるようなものに近く、私には好感が持てた。
ここでは、フォスターのテーマから感じられる思いからさらに広がって、
いろいろな感慨が、人それぞれに感じられるところだと思う。
そしてモチーフの再現、中間部の再現、という構成も私には趣が感じられた。

そして何より、私は辻井さんの弾き方に心打たれた。
出だしの舟歌を思わせる部分から、静かにモチーフへと進み、
それが抑揚を持って膨らんでいくところを聴いただけで、
クライバーンコンクールでのショパンの協奏曲で聴けたような、
彼の入魂の表現が、ここでもまた聴けた、という思いが込み上げてきた。
私は以前、辻井さんはライブでこそ本領を最大限に発揮できると思われ、
ライブ録音を残すべきだ、と申し上げていたが、
それもかなえられ、しかもその期待に見事に応えてもらった気がする。

私には、この曲がクラシック曲としての語法を用いたとみなされるような、
正統的なものかどうかの判断はつかない。
それどころか、現代の作曲において、どうであればクラシック的なのか、
クラシックの演奏会にふさわしい作曲とは何か、すらはっきりしない。
またこれは、フォスターの曲をただ編曲し、少々即興的なフレーズをつけただけではないかと言われても、
反論することはできない。
しかし、この曲を既に20回を超えて聴いている自分としては、
クラシック的かどうか、クラシック音楽会にふさわしいかどうか、
作曲とはどうあるべきか、などどうでもよくなってしまって、
この作品は、ジャンルに関係なく、「古典とみなされるものと同等の価値がある」と言っていいのではないかという思いを抱いてしまった。

CDのジャケットを改めて見て気付いたのだが、
この曲には「作品1」とあった。
今までの自作曲を作品に数えず、これを「作品1」とした真意はわからない。
映画音楽やテレビ用音楽はともかく、初期の自作曲や、
自分自身の動機で作り出したこれまでの曲は、作品として数えてもいいのではないかと思うのだが、
即興的に作ったのではない作品、
きちんと作曲を習って作った作品、
クラシカルな語法を意識して作った作品、
あるいはカーネギー・ホールへの初挑戦に対する意気込みの証、
というような意味が込められているのかもしれない。
少なくとも私に言えることは、どんな事情があったとしても、
この曲は「作品1」と呼ぶのにふさわしい、何度も聴きたくなる、
気に入った曲となったのであり、
素直に、心から、辻井伸行さんに感謝の気持ちを伝えたいと思う。
ありがとう、よくやってくれました。

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