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2011年10月 7日 (金)

天地真理55 水色の恋(6)

海外の方からこのブログにコメントをいただいたことがきっかけで、
このブログの一部の記事を英文にしたことがあったが、
どうせなら天地真理さんの歌を世界にアピールするチャンスでもあるかと思い立ち、
このデビュー曲「水色の恋」の1974年ライブ版を選び、
私のつたない英語力で英訳した歌詞をつけた。
その中で
「白雪姫 みたいな 心しかない私」
の部分について、やはり少々考えた。

私の英訳は、英詩としてのリズムや韻などは言うまでもなく、
歌の歌詞としての語呂を考えることなども到底できず、
元詩の意味を私なりに出来る限り正確に伝えられるようにのみ努力した。
しかしこの部分は、さすがにその表面的な言葉通りに訳すことはできなかった。
「白雪姫」の原作を私はきちんと読んだことはなく、
Wikipediaのストーリー抄記などを参照した上での解釈なのだが、
「白雪姫」を、運命を受け入れるばかりの、少々お人よしの人間性の象徴とみなし、
この歌において、”さよならの言葉さえ言えな”い、
つまりまだ自己主張の出来ない、少女のような私、ととらえた。
この解釈のもとに、この部分を、
「I was just a maiden like Snow White」
と訳するに至った。
maiden は和製英語としては、メイド喫茶など必ずしも良い意味ではないニュアンスを含むが、
もとより英語としてのニュアンスを知るべくもなく、
また調べた範囲ではさほど悪い意味も見つからなかったので、
その本来の意味「娘、乙女、少女」として使ってみた次第である。

この訳が妥当かどうかはともかくとして、私がここで言いたいのは、
この歌の作詞者は、この「白雪姫」という言葉にさほど深い意味を持たせなかったと
告白されているようではあるものの、


  ひこうき雲さんのブログ記事に、作詞作曲者の談として、次のように紹介されている。
  「天地さんは‘白雪姫みたいな心’という言葉にひかれたとおっしゃいましたけど、
   あれは童話の‘白雪姫’と関係なく、ただフィーリングで可愛いムードを出したかったの。」

白雪姫のストーリーを今一度見てみると、
白雪姫は、才能の象徴である”美”(真理さんの場合、その声と容姿)を持ち合わせていながら、
世間の象徴である継母(真理さんの場合、芸能マスコミや事務所、一部の大衆)からの迫害をうけ、
運命に翻弄され、何度も死の絶望に陥りながらも、
サポーターの象徴である小人に助けられつつ、
しかしその力も及ばぬ死の淵に至り、
本当の理解者の象徴である王子にもらい受けられる。
そして、偶然の象徴ともとれる家来のつまずきで息を吹き返し、
最後は幸せの象徴としての、王子との結婚、というストーリーになっている。
これらは奇しくも真理さんの人生を、少々大げさかもしれないが、
そしてまだそのストーリーの途上で、未完かもしれないが、
実に暗喩的に、象徴的に描写しているように思える。

デビュー当時「ソニーの白雪姫」と名付けられた際には、
単純にその容姿を白雪姫の美に、
あるいはデビューそのものや、来たるべき成功を、王子様との結婚というサクセスストーリーに
重ねただけだったかもしれないが、
この「白雪姫」という一言は、この歌が、真理さんのその後の人生を
奇しくも、良くも悪くも、包含するかのような意味合いまで持たせてしまったかのようである。



さらに私は、この「白雪姫」のストーリーが、
誤解を与えやすい、天地真理さんという存在そのものをも象徴しているように感じる。
白雪姫は、物売り、櫛、リンゴ売り、といった様々なものに騙される。
この白雪姫という存在を、天地真理ファン、あるいは天地真理さんを目にした大衆としてとらえれば、
まずもってその容姿、しぐさ、表情などの映像的魅力に人々は翻弄された。
このことに対して、騙されたという言葉は適切ではないが、
そのことが、彼女がデビュー当初「歌い手として頑張っていきたい」と言っていたことに
様々な障害、足かせとなった面は否定できないと思う。
アイドルたることを求められた結果、
また、その天真爛漫な性格や、まっすぐで潔い気質などから現れ出た行動が、
誤解を招き、重く見られない存在として大衆に浸透してしまった可能性はある。

私は彼女がアイドルとして活躍したことを否定するつもりはない。
また彼女の天真爛漫な性格や、まっすぐで潔い気質によってもたらされた
いくつかの、歌手として以外の活動からも大いに癒された方がおられることを否定しない。
だがそれらがあるが故に彼女自身が、他の名歌手、名俳優とみなされている方々に比べ、
低く見られたり、歌の価値を真正面から評価されなかったりした可能性はあるだろう。

さらには、彼女が「ひとりじゃないの」以降のヒット曲をテレビで歌った場面に時々見られた、
既に心ある方がご指摘のような、多忙ゆえの声の不調や準備不足、楽団との不適合、
あるいはファルセット(特にメゾソプラノの音域でのファルセット)の制御しにくさなどによる、
ある意味、売れっ子アイドルの宿命ともいえる、
歌のそのものの不十分な伝わり方の影響もあるだろう。

これらは、その一断面だけを見れば、名歌手と呼ぶにはいかにも軽く、あるいは不十分なものと
騙されても不思議ではない。
私はそのような誤解されやすさ、わかりにくさが、
天地真理さんを名歌手としてとらえようとした時に存在したことを認めざるを得ない。
それはまさに、何度も巧妙に、あるいは軽薄に、騙されてしまう「白雪姫」のようだ。

私は昔読んだ、森鴎外の「寒山拾得」という小説が何故か心に残っている。
何度読んでもその本当の意味がわからなかった。
しかし、本当に価値のあるものは、実は認識しづらく、
しかもひょっとして、身近な、世俗的には一見重きを置かれない存在の中にこそある、
という示唆を含んでいるようでならない。
また世俗的社会では、権威やマスメディアに容易に騙されてしまう可能性を
教訓として含んでいるように感じる。
私はこれらに符合するような要素が、天地真理さんという存在にあると思う。
天真爛漫な性格や、まっすぐで潔い気質などから現れ出た行動や、一時的な不調などは、
むしろ微笑ましく、時に癒されると感じられる本来の価値以上に、
今聴けば何の疑いもなく認めることができ、他の要素とは独立に見定められるべき彼女の歌の価値をも、
損なうものとなりえてしまう危うさを含んでいた。


実際のところ私にとっても、長い間天地真理という存在は、
私の世代にとって、まずもってアイドルの象徴であり、
名歌手と言うよりは、その魅力をいろいろな形で表現しアピールする「タレント」として映った。
同じ時期にトム・ジョーンズという歌手のアルバムは手に入れいてたから、
歌手のアルバムを聴くということは、中学生ながらできていたはずなのだが、
真理さんのアルバムは当時1枚も聴いておらず、
シングルレコードを数枚手に入れたにとどまっていた。

その柔らかみのある歌声に、他の歌手とは違う魅力を見出してはいたものの、
当時の映像的魅力に翻弄されることによって、
アルバムを手に入れて聴くという対象とみなしていなかったのだろう。

私にとってのその輝きは、地方に住んでいたせいもあって、
テレビに出なくなるというただそれだけのことで、私の意識から消えた。
断片的に垣間見たその後の彼女の姿、活動は、
若さと輝きを失ったアイドルとして、意識の中にうつろにしか映らず、
注目すらしなかった。

その後私は長年の無視の後、昨年になって、ある偶然から彼女の歌の良さに気付き、
プレミアムボックスを手に入れ、
歌、音楽という、騙すことのできないものから真実の価値を見出すことができたが、
それはまさに、
YouTube等のインターネット環境が整った時代としての幸運や、
そこに既に彼女の歌の良さに気付いていくつかの歌をuploadされていた方々の存在、
それらをちょっと検索してみようとした全くの偶然、
またそれまでの音楽体験、人生経験など、
若いころ気付けなかったものに気付けるようになっていた偶然が、
家来のひとりが木につまずいた結果、喉に詰まったリンゴを吐き出し、息を吹き返したという
偶然を象徴した「白雪姫」のストーリーに見事に重なる。
この歌の「白雪姫」という一言は、私も含め、
息を吹き返したファン、あるいは未だ息を吹き返していない仮死状態の元ファンの人生をも
包含するかのような意味合いまで持たせてしまったかのようである。

この曲が、単なる記念すべきデビュー曲という以上に、
また他のいくつかの曲と同様素晴らしい曲だという以上に、
どこか私の心の中で年々大きくなっていく、その理由を考えた時、
「あなたの声は いつまでも私の想い出に」という歌詞の、ファンにとっての都合の良さや、
別れの詩を長調の爽やかな曲調に乗って歌うという、その後の彼女の歌の美点を象徴する楽曲的特徴や、
彼女自身がまず出会い、その良さを認め、デビュー曲にまでした先見性、審美眼、運命論的価値に加えて、
「白雪姫」という、言葉としてのモチーフが入ることによって、
白雪姫が遭遇した様々な運命や、享受した偶然の恵みなどが、
上記のような、真理さんの人生そのものや、
何か私の心の中のよどみのようなものを暗喩していると感じるからではないかと思う。


天地真理さんは、先日のデビュー40周年祝賀会で、
この「水色の恋」をフルコーラス歌われたとのことだ。
この祝賀会を挟んで、「水色の恋」について書いてきたものとしては実に間抜けなのだが、
やんごとなき事情でこれに出席することができなかったため、
その「水色の恋」について語る資格は、私にはない。


  会員1名の参加を前提とされていた真理さん、真保さん、事務局の方々、
  そして代わりに行くことができたかもしれない方には大変申し訳ないことをいたしました。
  真理さんのデビュー40周年を直接お祝い出来なかったことへの埋め合わせは、
  私なりの別の形での活動等で償いたいと思っています。

祝賀会の模様は、いくつかの諸先輩によるブログで報告されている。
私は、天地真理さんがこのデビュー40周年祝賀会という記念すべき日に、
この「水色の恋」を選ばれ、歌われたという事実だけで今は満足している。

そして、私は真理さんがこの歌をどのように歌われたかを体感することはもはやできないとしても、
報告された様々な感想や体験記を見渡してみると、
前回記事「水色の恋」1976年ライブ版の中で述べたように、
恐らく真理さんは、歴史となったこの歌で、音域が広く歌いづらいこの曲で、
この歌はこういう歌だったということを威厳を持って示すと同時に、
「今の天地真理」を、隠すことなく、余すところなく、精いっぱい、
それこそ私が人間美として認めた、まっすぐさ、潔さ、誠実さを持って歌われたであろうことは
疑うことができない。

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コメント

Shin 様

 このたびの白雪姫論を拝見しました。

 正直申しまして内心ひやひやしながら通読させていただいた次第です。

 それは貴殿のご主張が多くのファンに受け入れられうるやいなやを危ぶむという思いではなく、当方の捉えかたと同一の落着点に帰するのではなかろうかと予想されたがためです。

 通読し終えて、幾分わが胸を撫でおろしています。

 「水色の恋」は重要です。それはとりもなおさず「白雪姫」が重要なのだということです。

 この「白雪姫」の謎を解く秘鑰を把持すれば、たちどころにあまたの未顕の事柄が透かし彫りの如くほの見えてきます。

 さらにあえて付け加えれば、「真理」という名がより重要なのです。当方はあらゆる書物に「真理」という語を見出だすごとに、細心の注意をもって幾重にも問題を反芻し、及ぶ限りに意念を凝らし続けています。

 追記 貴文中に見えます「やんごとなき」という語の用い方にいささか疑問を感じました。もしかしたらこれは「よんどころなき」とお書きになるおつもりだったのでは、と推察し、寸言呈上申し上げます。(あるいは、貴殿がやんごとなきあたりにかかわられるのだとすれば、当方の要らぬ婆心ではありますが。)

shiolaboさん
真剣なるコメントありがとうございました。
shiolaboさんの落着点にまで迫れなかったことは残念でもあり、
また秘鑰が秘鑰のままとなったという意味では
楽しみが残ったとも思えます。
ここでは私なりに実感していることを綴ったまでですが、
まだまだ深遠な世界がありそうですね。

「やんごとなき」という語を使うに当たっては、
一応ある国語辞典で調べ、「止む事なし」の転で、
「そのままにしてはおかれない。よんどころない。 」が元義、とあったので、
それを信じ、その通り「そのままにしてはおかれない」という意味で使いました。
ただ、このような言葉は受け取る方の学識やご経験に依存する部分もあり、
古語表現としての、
「家柄や身分がひじょうに高い。高貴である。」
ともとれるという意味では、
あまりうかつに使うべきではないとも反省しております。
どうか大目に見てください。

 真理さんが全盛期のころ、歌の評価は、世間では低かったのでしょうか。私の記憶の中では、「真理ちゃんシリーズ」があったため、歌のおねえさんというイメージが強く、歌は上手だと思っていたが、中学生になった私にとって、その幼児向け番組は、ちょっと恥ずかしくて見れなかったですね。
 そして、当時、女性歌手としては、歌が上手とは下手とかいう次元を超えた荒井由実の曲が、大衆受けするような時代だったと思います。
 80年ごろになり、山田邦子などのお笑い芸人が、誇張した裏声で真理さんのものまねを頻繁にやっていたので、このイメージが強く、真理さんの歌の評価が世間ではわからなくなってしまったのではないでしょうか。
 
 ところで、私もこれまで、「やんごとなき事情で出席できない」とよく使っていましたが、自分自身のことを言う場合は、不適切な表現なんですね、勉強になりました。

chitaさん
コメントありがとうございます。
他の方のコメントでもありましたが、
こういう特殊な用語だけに限らず、ちょっとした言い方の違いで、
いろいろな受け取られ方をする危険性があることを痛感しております。

荒井由実さんは、ミュージシャンとしては一目置かざるを得ない存在であることは
間違いないところです。
歌声は多少好き嫌いが出るかもしれませんが、
楽曲提供などでも活躍されていることは大いにうなずけます。

私など当時、真理さんの歌が上手、下手という話はあまり聞いたり読んだりした記憶がないのですが、
何かのインタビューで真理さん自身が、
「歌が下手だと言われたけど、下には下がいるもんだと思った」
などとおっしゃっているのをYTで聞いたことがあります。
こういう話を聞くと、私はギョッとしたり、胸が苦しくなる気がしますが、
ご本人がおっしゃるからには、そういう噂も実際あったのでしょう。
最近、昔書かれた何かの本で、「歌はあまりうまくはないが、...」という表現を
見たこともあります。
しかし、なぜうまくないというのかについては書いてないので、
こういう風に言う人が、なにをもって上手、下手を言っているのか
いまひとつつかめないところがあります。
その理由を聞いてみたい気もします。
まあ聞いたからといってどうかなるわけでもありませんが。
ちなみに「歌がうまい歌手 ランキング」などで検索して出てくる歌手を
YTなどで聴いてみると、私は納得できないことの方が多いです。

 「おマリは上等、上等」――鷗外を愛好されるとのことですから、おそらくご存知かと思いますが、鷗外は愛嬢・茉莉を溺愛し、日常のなにげないことにいたるまでほめぬいて、「おマリは上等、上等」としきりに猫の子のように撫でさすっていたとのこと。茉莉はそれをはげみに父の期待にこたえようとあらゆる努力を惜しまなかった。

 「お真理は上等、上等」と当時言ってくれる声があまりに少なかったのはとても歎かわしいことです。そのうえ、「歌が下手だ」という世評(これは驚いたことに「時間ですよ」の頃から言われていた。)を聞かされ自身でもそのように認識されていたようです。様々なインタビューにおいて「これからもっとがんばります」という発言が見られます。森茉莉とは異なり屈辱をバネに転化したわけなのですが、あれ以上にどれだけがんばればよかったのでしょうか。まったく世評ほど恐ろしいものはありません。

shiolaboさん
おっしゃること、共感いたします。

森鴎外(鷗外)は、出身県が同じだったりして親近感などもあり、
理系のくせにこの人のだけは全集とか買って読んでました。
茉莉というのは当て字かと思っていたのですが、
香りのいい木の名前でもあるらしいですね。
その辺がしゃれているというか。

少ない中でも「お真理は上等、上等」と言ってくれたのは、
先日の祝賀会でお名前が出ていた森光子さんや太田裕美さんとか、
そして前田武彦さんとか、谷啓さんとかでしょうか。
特に谷啓さんは音楽のこともわかり、共演もされていたので、
お話を伺って見たかったです。

 「茉莉」とは、 jasmin をさす漢語です。鷗外の子どもたちのなかではもっともすわりのよい名です。
 当方の愛読書のひとつに森茉莉『ドッキリ・チャンネル』があります。森家没落後、おんぼろアパートで「贅沢貧乏」を謳歌する茉莉は、テレビと向き合う孤独な日々を過ごします。そして、特異な着眼点で、テレビに登場する芸能人たちをあるときには辛辣にコキおろし(たとえばタモリなど)、またあるときには機知に富む讃辞を書き連ねます(たとえば研ナオコ・佐良直美・荒木一郎などに対し)。山口百恵はお眼鏡にかなわなかったようで、笑いかたが田舎風で上品じゃない等とけちょんけちょんにやっつけられています。そのひとつひとつの表現たるや、二重三重に技巧を凝らしたもので、とても読みごたえがあります。扱っている時代がやや新しい(70年代末以降)ので真理評は見あたりません。

shiolaboさん
お詳しいですね。
「父の帽子」は読んだことがありますが、それ以外は...。
「ドッキリチャンネル」は見かけたことはあるのですが、
初めは同姓同名の別人の書だと思ってました。
今読めば、歌手評論の手法として何らかの参考になるでしょうか。

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