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2011年7月

2011年7月29日 (金)

天地真理43 NHKの謎

4/29のNHK BSプレミアムで「昭和のヒットメーカーたち」という番組があった。
作詞家、作曲家、そして企画作りの裏側などにスポットを当てた番組なのだが、
ステージの背後に天地真理さんのレコードジャケットが何枚か映っていると家人が教えてくれたので、途中から見始めた。
するとアイドル曲というくくりで、
南沙織→小柳ルミ子と過去ビデオが流れた。
これまで、この手の番組を何度も期待を持って見ては、すかされていたので
元々あまり期待していなかったのだが、
この流れにはさすがに、これは間違いなく出ると確信を持った。
確信を持ってしまったばっかりに、
直後に麻丘めぐみさんが出たときのショックが今も忘れられない。
その後、男性アイドルということで、
西城秀樹→野口五郎→郷ひろみ と、こちらは出そろったところで私は言葉を失った。
これは明らかな歴史の歪曲ではないか。
NHKがこういうことをしてまで守りたかったもの、あるいは主張したかったものとは何だろうか。

私はいたってのんき者だが、この時ばかりは、
何か見てはいけないものを見てしまったような、
胸騒ぎのようなものが、長く後をひいた。
天地真理という芸能人が、未だ歴史になり得ておらず、
未だに、私の伺い知れない業界力学の影響下にあるという現実を
思い知らされたように感じた。

真理さんには、完全にNHK好みというわけでない部分もあったことはわかる。
しかし渡辺プロとの別れ、その後の経歴、履歴、
現在の状況など、私が知っている負の部分を考慮しても、
私にはこの理不尽さが未だに理解できないでいる。

渡辺プロと苦い経験をお持ちの小柳ルミ子さんはなぜ出られるのだろうか。
現在芸能プロダクションに所属していないという意味では(真理さんはSonyMusicには所属している)
南沙織さんも同じだろう。
樋口可南子さんは朝ドラに出ているし、細川たかしさんは紅白に復帰した。
作詞者、作曲者の方に問題があるかと疑っても見たが、らしい気配すらない。
そもそもレコードジャケットの方はこれ見よがしに映すところもよくわからない。

私自身が、真理さんをアイドルとしてのみ取り上げることを嫌忌しておきながら、
アイドル曲の仲間として紹介されなかったことに憤っているのも筋の通らない話だが、
もし納得のいく理由をご存知の方がしらっしゃったら、教えていただきたい。

昨年は民放には出演しているので、NHKとの関係だけかとも疑ったが、
2004年にはNHKで歌っていた目撃証言がここここにある。
その時の映像はおそらくこれだと思われる。
NHKアーカイブスの出演記録にも2000年以降何回か出演している。
従って、担当プロデューサの、今回に限った、何らかの考えに従っただけのものかもしれない。
当時のアイドルからコメントを取りたかったから、麻丘めぐみさんが選ばれたのだろうか。


先日、sakura6809さんのTweetで紹介のあった酒井政利著「神話を築いたスターの素顔」という本を
図書館で借りて読んだ。
著者は上記番組にも出ておられたが、
ソニー・ミュージックエンターテインメントのプロデューサーを務めた人で、
数々の歌手を手掛けた人らしい。
その一部を書き直したような記事がここにある。
この本の中で、1975年の紅白歌合戦に、
小柳ルミ子さんと南沙織さんは選ばれていながら、天地真理さんだけが選ばれず、
大晦日に児童施設に慰問に行きたいと言った話が紹介されている。
上記の構図にどこか似ている。
その前の年は、例の「想い出のセレナーデ」で紅白出場をしているが、
この年は目立ったヒットがなく、選に漏れたのだろう。
しかし、この年はミュージカル「君よ知るや南の国」に取り組むなど、
天地真理さんは、その声のコンディションからいっても、
活動の質からいっても、歌手としては全盛期を迎えようとしていたと私には思える。
こんな時こそ、事務所の力で、
もし紅白にミュージカルの一部でも再現するような構成での出演を果たせていたなら、
本格派歌手としてのイメージ付けに成功し、
その後の歌手としての経歴も大きく変わっていただろう。
しかしそれは叶わなかった。
歌手としての自信は大きく膨らんでいただろうことを思うと、
その落胆は想像に難くない。


こんな恨み言を書いていると、真理さんにたしなめられそうである。
冷静になって考えてみると、
2006年に民放でバラエティ風の演出で出演されて最後に1曲歌われはしたが、
きちんとした歌番組で、ステージの上で歌わせてくれたのは、
上記2004年のNHKの番組が、テレビとしては今のところ一番新しいのではないか。
つまり、NHKは真理さんを歌手としてきちんと取り上げてくれた現在までのところ最後の局ということになる。
(もしこの認識が間違っていたら教えていただきたい。)
私はこれは大変な功績であると思う。
そういう経緯から考えると、もし今後テレビで取り上げてもらうなら、
NHKの方がいいのではないかと思ったりする。
ただし、これは真理さんに何とかテレビに出てもらいたいということではない。
一部のかまびすしいファンの要望にこたえてとか、誰かにそそのかされてとかでなく、
あくまで、ご自身がやってみようと心の中から思われた時のことであってほしい。
その時は、私もただただひれ伏し、讃え、仰ぎ見るのみである。
まあそう単純に事は運ばないとは思うが。

2011年7月22日 (金)

天地真理42 To be modest, have to be harmonious

I would like to add one footnote.
I cannot confidently say yes to the question whether the moderate rubato with less deformation,
which is found in Tsujii's and Amachi's music,
is valuable by itself.
I think the moderate rubato with less deformation is not enough to make music tasty and attractive.

Excellence of Tsujii's and Amachi's music is found in their harmonious sounds and exquisite nuances
which are understated but capture people's hearts.
Paradoxically, attractive sounds and nuances are needed for the music with moderate rubato with less deformation.
In other words, moderate rubato with less deformation maximizes the beauty of the attractive sounds and nuances.

Charm of the sound itself, in Amachi's case, comes from her voice quality and vocalism.
Her voice can sound musically and sweetly even without accompaniment.
And in case with accompaniment, her voice harmonizes especially with the sounds of strings and woodwinds.
I sometimes feel her songs not to be a voice with accompaniments, but to be an ensemble of voice, that is one of the instrument, and accompanied instruments.
I guess that the reason is that her voice resonates well with her body like Stradivarius,
and her voice sequences, which consist of portamento, voice growth and vibrato,
have the similar phrasing of strings and woodwinds.
When she manages this kind of voice sequences, we can easily understand that excessively-dramatic deformation detracts its excellence.

In Tsujii's case, charm of his sound comes not only from his favorite piano and tuning,
but also from the way he hits the notes.
Horowitz could highlight the melody line that he thought the most charming among the complicated sound clusters.
He could make the selected sounds sing throughout the hall,
and make the other sounds waft like delicate flavor or faint background that surrounds the lead character.
He could make the sound of right hand stand out against that of left hand.
Furthermore, he could make one sound of right hand (by little finger or other one finger) stand out against the other sounds of right and left hand.
This was particularly effective in the complicated music with a pile of sounds like Schumann's, Scriabin's and Rachmaninoff's.
This means not only the excellence of his technique, but also his favorable attitude to make such clear sound.
Almost half of the reason that I like his music is in this viewpoint.
And Tsujii can do almost the same way.
I would say, nowadays, he has the best taste and technique in this viewpoint.
His beautiful sounds, that is often pointed out, depend on this characteristic,
along with his excellent touches to each note.
Naturally, the reason that I recognized him as a pianist who succeeds Horowitz
was that I found this characteristic in many phrases of his performances.

With respect to nuances, Amachi uses portamento, choking (bending in guitar technique), short appoggiatura and rubato in her singing.
And they express the heart of herself.
Tsujii uses rubatos and the change of sound volume and quality to make exquisite nuances.
But it must be remembered that his rhythm is quite excellent.

I sometimes feel unattractive with the rhythms in key phrases that are played by mechanically excellent pianists.
I think the excellence of rhythm appears in how to play dotted notes.
I should not say "excellence" but "preference".

When we use a dotted note, the sound of one in length is divided into two sounds with the ratio of 0.75:0.25, according to the musical score rule.
But if you play as it is, it will be a little dull.
It should be played with the ratio of 0.8:0.2, or 0.85:0.15 for crisp rhythm.
I sometimes hear that some pianists play in an opposite way.
This type of pianist tends to play other rhythm dully.
It means, for example, dull staccato and dull rubato, etc.

I have read a book that introduced Horowitz.
It was written that Horowitz has "excellent rhythm", and introduced his Pathetic Sonata for example.
I was absolutely enchanted by his rhythm in it.
This is a beginning part of the first movement of Beethoven's Pathetic Sonata.

 

 

(The full playing is here.)
I do not discuss here whether this performance is suitable for Beethoven or not.
At least, you can find the "excellent rhythm" in it.

This may be a little too extreme,
but I can find almost the same excellence of rhythm in Tsujii's music.
Such sense of rhythm is found not only in the rhythmic finale,
but also in slow rubatos and singing of melodies.
I think excellent rhythm is necessary for charming rubatos and nuances.
Because a rubato is the fluctuation of tempo, fine rhythm fluctuations determine the charming rubatos.
And nuances consist not only of the produce of sound, the change of pitch and articulation,
but also of the timing of phrase start and sound change.
As I admired Amachi's rhythm in the previous article,
excellent rhythm is involved in the elegant, natural, resonate nuances.

People who knows Horowitz think that Tsujii is a quite different type of pianist.
But surprisingly, I feel some common fascinations from each other.
And I think they relate to Amachi's in the basics, too.

2011年7月15日 (金)

天地真理41 崩さない音楽は美があればこそ

一つだけ付け加えておきたいことがある。
天地真理さんや辻井伸行さんの作り出す音楽における、
抑制の効いたルバートとか、曲を崩しすぎないやり方は、
それ自体に価値があるかと問われると、
私は自信を持って肯定できない。
むしろ普通の人がそれをやると、
全く味気のない、魅力のない音楽になるだろうと思われる。

天地真理さんや辻井伸行さんと普通の人とを分つものは、
発する音そのものの心地良さと、自然で控え目だが人の心をつかむことができる絶妙のニュアンスにある。
逆説的だが、その音の魅力とニュアンスの魅力があって初めて、
過剰なルバートや大きなデフォルメがないやり方が効果を発揮する。
過剰なルバートや大きなデフォルメがない方が、それらの美点が最大限に生きると言い換えてもいい。

音そのものの魅力とは、天地真理さんの場合、
これまで何度も説明しているが、その声の質と発声法だろう。
彼女の歌は、伴奏がなくとも大変音楽的に、心地よく響く。
私はかねがね、伴奏がないと聴けない歌手と、伴奏がなくとも素晴らしい歌手とがあることに気付いていた。
天地真理さんはまさにその後者だ。
それは伴奏の音が小さい時や、ギターだけの伴奏の時に、
彼女の歌がひときわひき立つことからも容易に理解できる。
公式音源にはないが、
2,3人で合唱しているときに、天地真理さんの歌声だけが、
別種の、ある種の楽器であるかのように響いてくることからも、私には感じ取れる。

そして、伴奏がある時、「小さな日記」の記事で触れたが、
彼女の声は、弦楽器や木管楽器の伴奏に、とりわけよく調和する。
これは私には、伴奏 対 歌ではなく、
あたかも楽器の一つとしてアンサンブルを組んでいるような、
心地よい音同士の調和の取れ方だと感じられる。
これはひとえに、その声自体が倍音を多く含んでいて、
ストラディバリウスのように、共鳴管と響板としての体によく響いており、
さらには、ポルタメントを含む発声から声が伸びていって余韻を伴うビブラートへとつながる
一連の声の作り方が、弦楽器や木管楽器のフレージングに通じる心地よさを持っているからだろう。
このような心地よさを持っている声を操る場合には、
話し言葉の強調のような過剰な演出は、かえってその魅力を損なうことが
容易に予想されるだろう。


そして辻井伸行さんの場合、音そのものの魅力は、
彼自身の志向に合わせたピアノの選び方、調律のされ方もあるが、
主として、彼のピアノの鳴らし方にあると思う。
ホロヴィッツは、どんなに複雑な音の重なりの中からも、
自分の鳴らしたい音、その音楽にとって最も魅力的な旋律線を浮き立たせ、
ホールの隅々まで響き通るように歌わせ、
他の音を、あたかも周りに漂う空気、あるいはキャンバスに描かれた主人公を取り囲む淡い背景のように
侍らせることができた。
これは単に右手と左手の音量バランス、といったレベルだけでなく、
右手の小指(あるいは他のどれか一つの指)と、
その他の両手の指との音量バランスといったレベルで弾き分けることができた。
この効果はシューマンやスクリアビン、ラフマニノフなどの、音が複雑に重なった曲で顕著に発揮される。
これは単にピアノを弾く技術が優れているというだけでなく、
そういう音楽の作り方を指向しているというところに決定的な差がある。
私がホロヴィッツを好きな理由の約半分はここにあるのだが、
辻井伸行さんはまさにそれができるのだ。
恐らくこの点に関して、辻井さんは現存するピアニストの中で最も優れたセンスと技術をもっていると思う。
そして、よく指摘される彼の音の美しさは、一音一音のタッチの素晴らしさもさることながら、
この特質に大きく負っていると思う。
当然のことながら私が、私の中でホロヴィッツを引き継ぐ存在として辻井さんを認めたのも、
この特質を彼の音楽の随所に認めたからに他ならない。

ニュアンスの魅力は、天地真理さんの歌の場合、
これもすでに語りつくしたが、
ポルタメント、チョーキング、短前打音、ルバートなどの使い方、
そして言葉を発する時の心延えにあると思う。
しかし、ピアノの場合、ポルタメントやチョーキングといった技は使えない。
辻井さんはルバートと音量変化、音質変化によって、
絶妙なニュアンスをつけているわけだが、
忘れてはならないのは、そのリズムの良さである。

メカニカルに素晴らしい演奏をおこなうピアニストの中にも
要所でのリズムに魅力のなさを感じることが往々にしてある。
私が感じるリズムの良し悪しは、付点音符の扱い方に典型的に表れる。
良し悪しというのは傲慢だ。好き嫌いというべきだろう。
1の長さを持った音を、付点音符とそれを補完する音符とで分かつ場合、
楽譜の通常の規則によれば、0.75:0.25の比率で音の長さが分かたれる。
しかしこれをそのとおりに弾くと、往々にして足を引きずるような音楽になる。
どちらかと言えば付点音符の方を長めにとり、0.8:0.2、あるいは0.85:0.15という風に
リズムを取った方が切れ味が出る。
だが逆に付点音符の方を短めにとったルバートをつける傾向のあるピアニストがいる。
そのタイプの奏者は、他のリズムでも、例えばスタッカートが間伸びしたり、
だんだん早くすべきところを遅くしたり、
私の好みでないリズムとなることが多い。

私がホロヴィッツを知る以前に、あるクラシック紹介書籍で、
ホロヴィッツの音楽の特長の一つを「抜群のリズム」と評してあって、
その例としてベートーベンの悲愴ソナタがあげてあった。
私はその表現に惹かれてホロヴィッツのその曲を聴き、
たちまち虜になった。
第1楽章の冒頭である。


(より長く聴きたい方はこちらへ)
この演奏がベートーベンにふさわしいかどうかという議論はここでは扱わないが、
好き嫌いは別として「抜群のリズム」と評されたものがどのようなものかは
うかがい知ることができるだろう。

ここまで極端ではないが、
私は辻井さんの演奏に、これに類するリズム取りの良さを感じている。
そしてこのリズム取りの良さは、
曲のフィナーレでたたみかけていく時にも感じられるが、
テンポの速くないルバートや旋律の歌わせ方においても感じることが多い。
つまりリズム取りの良さは、ルバートやニュアンスの良さにつながると私は考えている。
ルバートはテンポの揺れであるから、細かいリズムの取り方そのもので
その良し悪し、ではなく好き嫌いが決まってくる。
ニュアンスは音の出し方、音程の変え方、言葉の発し方によるところが大きいが、
そこにはどのタイミングで、どう音や言葉を入れたり、言葉を切り替えるか、ということが
大きな要素として効いてくる。
私は前々回の記事で、天地真理さんのリズムの良さに触れたが、
すっきりとしていて、自然な感じだが、心に響くニュアンスには、
必ず抜群のリズム取りが関わっていると思う。

ホロヴィッツを知っている方々にとっては、
ホロヴィッツと辻井伸行さんの音楽は全く異なるタイプのもののように思われるかもしれないが、
私の中では、上記のように、意外に共通の魅力を感じ取っているように思う。
そしてそれは、天地真理さんの音楽の魅力とも、根本のところでつながっているのではないだろうか。

2011年7月10日 (日)

天地真理40 Nobuyuki Tsujii (English)

Please let me talk about Nobuyuki Tsujii, the most fascinating pianist for me today.
He has been featured on television as a blind pianist.
I am a little bored with some parts of these shows.
But I feel I have found it at long last.

Vladimir Horowitz was my idol.
I listened to his two Japan tours in spite of the extraordinarily high entrance fee.
My second favorite is Sviatoslav Richter.
The only active pianist whom I hoped to hear in concert was Arcadi Volodos.
They were invaluable pianists who helped me to discern classical piano music.
I will leave off discussing further about these pianists, so as to keep this piece from becoming too long.

I was fascinated with Horowitz in the late 1970s, in my high school age,
when Mari Amachi (one of the most famous Japanese singer in 1970s and the heroine of this blog site) appeared on TV less frequently and I lost attention.
After that, somewhere down the line, I hoped to find another idol to succeed Horowitz.
It has almost been twenty years since the last sleep of Horowitz in 1989.
I was eager to find pianists who really enchant me
and who will help me to develop the interest in piano music that Horowitz had instilled in me.

However, it was a lot of disappointment.
I like Lipatti, Rubinstein and Kempff modestly.
But they were far from Horowitz.
I have listened to competition winners (including second-prize winners):
Ashkenazy,Pollini, Argerich, Zimerman, Dang Thai Son, Bunin, etc.
I knew child prodigy, Sgouros, Kissin, and Hamelin, Lang Lang, etc.
Of course I sometimes felt their performances were great.
But they couldn't be my idol, someone whose music I would be eager to listen wherever and whenever.
Before long, I almost gave up the search because my ears had listened to the unique sound of Horowitz so much that I could not accept those of other pianists.

At last, there was the Van Cliburn International Piano Competition in 2009.
Because of my past experiences, I did not pay very much attention to this competition.
Even when I heard about the victory of a blind pianist, I felt it's only a heartwarming story.
But when listened to the performances of Nobuyuki Tsujii on the competition's website
as well as his past performances on YouTube,
I became heartily fascinated with his music.
We can still watch and listen to his performances in the competition at the website .
His style seems very far from Horowitz's
-- the difference is as great as that between Mari Amachi and Hibari Misora (both are famous Japanese singer),
but it really charms me.

To be honest, not all of his performances satisfy me.
It is the same with Horowitz.
Some pieces seem to me less proficient.
But I think the following three pieces at least are superior, even compared with any pianists listed above.
They are really irreplaceable.
Fortunately or unfortunately, Horowitz didn't leave recordings of these pieces.


The first piece is Chopin's etude Op.10-1, played at 15 years old on Hiroshi  Kume's TV news program.


The recording is a little noisy, but its remarkableness can be heard clearly.
It was said in the old days that there was a poem in the scales of Horowitz.
This is exactly like that.
Tsujii did not play it in a conspicuously raging way like most prodigy pianists.
Because his physical ability was still under development, the tempo is rather slow, by competition standard.
Actually, he played it faster in the Cliburn Competition.
I could feel that his touches are very stable and firm.
It means that he has a steady attitude for the future, and has been advised by excellent coaching.
It also indicates that he can also surely become superior compared with other prodigies of the day.

Most of all, the expressions from around the seventh up-down scale are extremely remarkable.
I have no time to consider the meaning or scene of this music.
Instead they directly shake my mind with fluctuations generated by the pure sound sequences.
He doesn't use excessive rubato or exaggerated deformation.
The slight rubato, slight dynamics, and slight coloration change make the music so touching.
Etudes, especially for this kind of scale etudes, usually need no shows of emotion.
But I think such suggestion might be said by person who could not play like this.
Even compared with the amazing performance of Pollini -- who gained prominence by Chopin's Etudes,
the difference and the magic are obvious to me.


The second piece is Liszt's La Campanella, played at the Cliburn Competition.


I loved this sentimental theme, so I had a chance to listen to the performances of this piece by eleven pianists.
But I couldn't be satisfied at all.
Their fantastic speed and brilliant jumps could only tickle my taste for piano acrobatics.
This performance by Tsujii attained what I had expected for this piece for so long.
In the face of torturous jumps and trills, he easily overcame them and they came together beautifully in a fluid stream of music.
More over,  each pearl of tone springs from the flowing music stream to strike my heart.
As it was a live performance, there were some wrong notes struck,
but it moves me to tears nevertheless.
I think it is the best performance ever.

Other pianists may play those two pieces successfully by perfecting the technique mechanically.
Tsujii, instead, not only displays his technique at the highest level,
but also adds to it nuances that are so natural, rich and varied that they grab my heart.


The third piece is Chopin's Piano Concerto No. 1, also performed at the Cliburn Competition.
Let me introduce the famous theme in the 1st movement.


Other pianists would play these fascinating passages more intensely, more sentimentally.
I have actually heard these expressions sometimes in other pianists' performances.
I, however,very much  appreciate Tsujii's exquisitely-chiseled expression with slight but precious rubato,
consisting of the subdued but shimmering sounds of the Steinway piano.
In playing the melancholic melodies, his balance of the strength in the right and left hands is perfect.
His sounds are incredibly beautiful and they directly pierce deep into my heart.
Furthermore, his melancholic expression is not so depressing but instead somewhat cheerful,
and it contains a hope for salvation.
It was a big surprise to me that I felt so fresh and so genuinely moved,
when I heard this performance of a familiar melody that I had heard many times before.

Once I have become fascinated with this kind of expression by Tsujii,
I feel that any other expression is garble, tarnished by needless conception or exaggeration.

I don't mean his sounds have no nuances.
In fact they are full of soothing nuances.
The nuances are far from dramatic deformation,
but are definitely built upon a good balance between moderate rubato and Chopin's melody itself.
As critics and instructors in classical field often say,
such balance, instead of dramatic rubato, must maximize the goodness of the piece.
Actually it's difficult and rare.
But he did it in this performance in the ultimate way.

This sense of beautiful vibrancy fills up all three movements of this piece, with superb rhythm.
I appreciate the rhythm and aggressiveness in the finale, too.
This is a historical masterpiece.
It doesn't seem an exaggeration that at the competition, the judges and members of the orchestra were brought to tears by this performance.
I can imagine experts who had heard tremendous performances,
as well as beginners for classical piano music, were moved with the vivid impression.

He makes the piano sing and he adds excellent nuances especially to the pieces that are rather difficult to sing.
And he maintains moderation and excellent balance, for the pieces which already have a lot of melodious phrases.
Both of them are not tasteless nor mawkish, but they bring forth musical and acoustic beauty.
Tsujii's way of expression is rather different from Horowitz's.
So he rekindled in me a new affection for piano music.

I think his live performances are far better than studio recordings.
The other day I watched a recording session of his composition "A Morning in Cortona" on a TV show (the "Takeshi Art-Beat" show - June 8 2011).
The music director gave Tsujii suggestions, and he played the piece again and again in an empty hall.
I would recommend that he records his performances just once, in a hall full of audiences.
Then he will make the best performances of the pieces.
I hope that no music directors or professors would try to influence his musical sensibility.


After I wrote so far, I read an interesting consideration that Hikokigumo-san wrote.
He describes Mari Amachi played Chopin and Bach with different approaches.
Then I became aware that Tsujii's expression, excellent nuances for etude and moderate balance for concerto,
is something like Mari's approach, emotions for Bach and simplicity for Chopin.
It also reminds me of her rich nuances for optimistic songs and her restrained sentimentalism for pessimistic songs.
I think it is common basic characteristic for musical expression.
Such "Mari Amachi's aesthetics" is not exclusively for her but should be pursued as one of the ultimate harmonious music style.
That is what Tsujii's performances let me realize undoubtedly.


According to Maho's Tweets, a daughter of Mari,
Mari Amachi listens to Tsujii's CDs almost every day.
And Maho herself heartily loves Tsujii's piano performances.
I wonder how they feel to listen to his music.

Meanwhile, Tsujii-san said in an interview that he liked ladies of a good voice.
I'm sure he will instantly fall for Mari Amachi's songs.

2011年7月 5日 (火)

天地真理39 辻井伸行さん

ピアノの話題ついでに、私が今最も注目しているピアニストについて触れさせていただきたい。
辻井伸行さんである。
全盲のピアニストとしてテレビでも取り上げられ、
その取り上げられ方が、少々食傷気味な部分もあるが、
私としては、やっと見つけた、という思いがある。

私はホロヴィッツ(Vladimir Horowitz) というピアニストが好きだった。
2度の来日公演を2度とも、高額の入場料をものともせずに聴きに行っている。
次に名前を挙げるとすればリヒテル(Sviatoslav Richter)だ。
現役ではヴォロドス(Arcadi Volodos)だけが、コンサートを聴きに行きたいと思える存在である。
これらのピアニストのことを語り始めると長くなるのでやめるが、
クラシック音楽、ピアノ音楽の魅力をわからせてくれた
かけがえのないピアニストである。

私がホロヴィッツを知ったのは高校生の終わり頃、1970年代後半で、
天地真理さんのテレビ出演が減り、私の真理さんへの注目も薄れていった頃に符合する。
その後いつの頃からか、私はホロヴィッツの後を継ぐ、
熱中できる、心底いいと思えるピアニストを探すようになった。
ホロヴィッツは1989年に亡くなっているから、
そこから数えても20年になるが、彼の晩年のころから、
せっかく知ったピアノ音楽の良さをさらに深めてくれる新しい偶像を見つけたいと思っていた。

ところがこれが落胆の連続だった。
リパッティとかルビンシュタインとかケンプとか、
そこそこ気に入っているピアニストはいる。
しかしホロヴィッツほど寝食忘れて没頭するというのには程遠い存在だった。
コンクール路線でいけば、アシュケナージ、ポリーニ、アルゲリッチ、ツィマーマン、
ダン・タイ・ソン、ブーニン等々、
神童路線でいけば、スグロス、キーシン、
その他、アムラン、ランランなど。
もちろん曲によっては、また部分的には凄いと仰天することは多々あるが、
ホロヴィッツの時のように、何があっても見たい、聴きたいという欲求が生まれる存在にはならなかった。
私はいつしか、ホロヴィッツという個性の強いピアニストを好きになってしまった代償で、
もはや他のピアニストは聴けない耳になってしまったのだろうと半ばあきらめていた。

それが2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで一変した。
元々上記のようにコンクールあがりのピアニストで心底好きになれた人はなかったので、
このコンクール自体にも注目していなかった。
全盲のピアニストが優勝したというニュースを聴いた時点でも、
微笑ましい快挙だというぐらいの受けとめ方だった。
それが、コンクールの模様を伝えるインターネットサイトを訪れて実際の演奏を聴き、
またYouTubeで過去の辻井さんの演奏を聴いて、虜になった。
コンクールの模様は今日現在でも、コンクール主催のサイトで視聴することができる。
それは、ホロヴィッツの路線とは一見程遠い、
それこそ美空ひばりさんと天地真理さんぐらい違うものだったが、
その音楽に心底惹きつけられた。

正直に言って私は、耳に触れる彼の演奏のすべてを素晴らしいとは思っていない。
それはホロヴィッツの演奏でも同じだが。
辻井さんには、まだ未熟だと感じる部分もある。
しかし次にあげる3曲は、上にあげた幾多の演奏家と比較しても凌駕している、
かけがえのないものと言えるものだ。
ホロヴィッツはこの3曲は残していないが。


まず辻井伸行さんが15歳の時、久米宏のニュース番組に出演した時に演奏した
ショパン練習曲Op.10-1。

音が割れていて聴き苦しいところがあるかもしれないが、
その音楽の良さははっきりとわかる。
昔ホロヴィッツは音階を弾くだけで詩があったと言われたが、
この演奏がまさにそれだ。
神童と呼ばれるピアニストによくある、これ見よがしの、
やみくもに怒涛のような演奏ではない。
テンポはむしろ、現代のコンクール仕様からすれば遅めだ。
これは彼がまだ15歳で、肉体的に発展途上のためであって、
彼自身20歳の時のコンクールでは、もっと速く弾いている。
将来を見据えて、決して弾き飛ばさない姿勢がうかがえ、
指導者の良さも垣間見えるし、どんなにその時点で凄い神童よりも末恐ろしさを感じる。
そして何より、上昇下降を繰り返すフレーズの7回目あたりからの表情付けが凄い。
音楽の意味とか情景とかを考える余地のない、
純粋に音の連なりとしての音楽のゆらぎに、直接的に心が揺さぶられる思いがする。
いたずらに感傷的に、ルバートを多用してデフォルメされているわけではないのに、
ちょっとした強弱、ちょっとした音色変化にほろりと来る。
本来練習曲であって、過剰な表情付けは避けられるのだが、
これを聴くと、そんなことを言ったり指導したりする人は、
このように素晴らしく弾けない人が言うことだと思えてくる。
例えば、この練習曲集で一躍有名になったポリーニの演奏と比較すると、
それも文句なく凄いのだが、その違いと魅力は、私には明らかだ。


2曲目は、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで弾いた、
リストのラ・カンパネラである。

私はこの主題の魅力に惹かれて、11人の奏者による、この曲だけのCDというものを聴いたことがある。
ところがどの演奏にも全く満足できなかった。
スピード感や跳躍が凄いものはもちろんあるが、それはいわば曲芸としての面白さだ。
ところが辻井さんのこの時の演奏で、やっとこの曲に求めていたものに出会えたような気がした。
拷問のような跳躍や装飾をものともせず、いやそれらが冴えわたっているにもかかわらず、
それらを見事に音楽の流れに引き込んでいる。
しかも音楽がすっきりと流れているにもかかわらず、
その珠玉の一音一音が心に突き刺さってくるような美しさを放っている。
ライブだからもちろん傷はある。
しかしこれは感涙ものの、名演中の名演だと思う。

上記2曲は、技術一点張りの、ロボットのような演奏をおこなっても
それなりに聴こえる要素を持った曲だが、
そんな曲であればある程、
技術では決して引けを取らない冴えを見せていながら、
自然だが人の心をとらえてしまう豊かなニュアンスを盛り込んでいる。


3曲目は、同じくヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで弾いた、
ショパンのピアノ協奏曲第1番だ。
第1楽章の有名な主題の部分を聴いてみよう。

この魅力的な主題のメロディーを、もっとえぐるように、
もっと感傷的に弾くことは可能だろう。
実際そのような演奏は多々ある。
しかし私は、この、わずかにかかったルバートの上に、
一音一音、どちらかといえば端正に、しかし慈しむように乗せられた
底光りするSteinwayピアノの音が生み出すショパンの旋律がこの上なく気に入った。
しかも、この曲に現れる哀愁を含んだ多くの旋律が、
左手と右手の絶妙な音量バランスの中で、
耳から直接心の深い所に突き刺さってくるような、
今まで聴いたことがないほど美しい音で奏でられ、
しかもその哀愁が、どん底に落ち込まない、どこか朗らかで救いがある響きに満ちている。
何度も聴き馴染んだこの旋律が、これほど新鮮に、これほど純粋に聴こえることに驚いた。
これを気に入ってしまうと、
大抵の演奏が、どこかゆがめられた、無用な思惟に汚された、鼻につくものに聴こえてきてしまう。
私は彼の演奏するショパンにニュアンスがないと言っているのではない。
むしろ心地よいニュアンスにあふれているのだが、
それは無理につけたデフォルメ的ニュアンスでなく
抑制の効いたルバートと、曲自体が元から持っている音の連なりとがぎりぎりの均衡を持って
流れることによるものだ。
恣意的なルバートで崩すよりも、ぎりぎりの均衡を保った方がその曲が生きるという、
クラシックの世界ではよく言われることを、本当に、究極の形でやって見せてくれたというべきだろう。

このような素晴らしい響きが、素晴らしいリズムとともに、3楽章すべてにわたってちりばめられている。
情感のある表現だけでなく、フィナーレのたたみかけるようなリズムと迫力も素晴らしい。
私は歴史に残る名演だと思う。
楽団員や審査員が涙したというのも、私は大袈裟ではないと思っている。
今までピアノ音楽を聴いたことがない人にも、おそらく感動をもたらすと思うが、
コンクールなどで聴き飽きるほど聴いてきた人々にとってこそ、
これは鮮烈に響いたことが想像できる。

ニュアンスをつけにくい曲、歌いにくい曲ほど見事にニュアンスをつけ、歌い、
曲自体にニュアンスにつながる節回しが元々ついていて、
自ずと感傷に流れやすい曲では、ぎりぎりの抑制のもとで、見事な均衡を保つ。
それがいずれも、無味乾燥でなく、かといって感傷に流れすぎず、見事な音楽美、音響美となっている。
ホロヴィッツのショパンは決してさりげなくないのだから、
これは私としては、ピアノ音楽の今までにない聴き方、魅力の感じ方を教えてもらった気がする。

辻井伸行さんはこれまでのところ、ライブの方が圧倒的にいい。
先日テレビで自作の曲を録音する様子が放映されていたが、
音楽ディレクターがあれこれ注文をつけて無人のホールで録り直しをしていた。
観客のいるホールでの一発勝負で録音した方がはるかにいい音楽が録れるだろうに。
妙な音楽ディレクターや、善意で教えてくれる先輩ピアノ教授の感性にゆがめられないことを私は祈りたい。

私はここまで書いてきて、
ひこうき雲さんが、天地真理さんのピアノ演奏について、
バッハとショパンへのアプローチが異なるという
興味深い考察をされている記事を読んだ。
辻井さんの、練習曲へのニュアンス付けと、協奏曲での抑制と均衡の効いた表現が、
真理さんの、バッハでの情感と、ショパンでのさりげなさに通じる、
ひいては真理さんの歌における、
明るい曲での「豊かな情感」と、悲しげな曲での「感傷におぼれない」表現に通じる、
音楽を作る上での基本的な共通点であるように思えてきた。
そんな「天地真理さんの美学」は、決して特異なものではなくて、
美しい音楽の究極の形の一つとして、追及されてしかるべきものだということが
辻井伸行さんの演奏を聴くと、よりはっきりとわかるように思う。

Twitterで真保さんが教えてくれたところによると、
真理さんは毎日辻井さんのCDを聴いている(時期があった)し、
真保さんも辻井さんのピアノが大好き、とあった。
辻井さんの演奏を聴いて、真理さん、真保さんが抱く思いはどのようなものか、
聞いてみたい気もする。

一方、辻井さんはあるインタビューで、声のいい女性が好きと言っていた。
私には、辻井伸行さんが天地真理さんの歌声を聴けば、
間違いなく好きになるという確信がある。

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