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2011年5月

2011年5月28日 (土)

10000アクセス達成感謝

真理座の作成に気を取られている間に、
気がついたら本Blogが10000アクセスを超えてました。
10000という数字が多いのか少ないのかわかりませんが、
恐る恐る始めたBlogを、結構見ていただいていると思うと、励みになります。
訪れていただいた方々、ありがとうございました。

2011年5月27日 (金)

天地真理35 画像を音化 真理座

前回の「画像の音化」で紹介した作品は、
画像の素直なイメージとしてとらえると、さほど悪くないと思えるが、
そこに音楽を期待すると、少々期待外れとなる。
描かれた線をそのまま音に変換しているため、
音程は平均律からはずれ、リズムも規則的なものはない。
ひょっとしたら、自然の音色、
例えば川のせせらぎや風のそよぎ、虫の声、などが出てくるかと期待しなくもなかったが、
そう都合良くはいかないようだ。
視覚に訴える絵として描かれた画像の音化としては、いたしかたないと思えるのだが、
やはり音楽にしてみたいという、一抹の心残りはある。

そこで、黒地の画面に白い点をちりばめ、音楽を作ってみることにした。
黒地に白い点とくれば、やはり宇宙だ。
天地真理さんの名前とも相性がいい。

  天地真理さんがお星さまになった、などということを連想される方は、
  どうかこの項を見ずに飛ばしていただきたい。
  そして不快を与えたことをお詫びします。

  星に名前をつけるという「スターネーミングギフト」なるものがあるらしい。
  結婚や婚約などの記念に、星に名前をつけてプレゼントしようというものだそうだ。
  お金がかかるものであるし、どこまで命名権が保証されるのか、詳細を知らないのだが、
  星と大切な人を結びつけることに、良いイメージがある例として紹介しておく。

画像を音にする CoagulaLight というソフトは、
画像の上下方向の明点を、音階に比例した規則で音にするので、
上下方向に等間隔で点を並べれば、
ちょうどピアノロールやオルゴールのように、
平均律の音楽を作ることができる。

Gakuhu

この図(クリックで拡大)は低いソから高いファ#まで、約4オクターヴの配置を描いたものである。
縦軸がピアノの鍵盤のようになっている。白線が白鍵、灰色線が黒鍵である。
高いファ#は1480Hz、低いソは98Hzであるから、
この1480と98を CoagulaLight の Pitch Range の High と Low の値に入れてやると、
通常のピアノと音程が合う。

この格子状の譜面に白い点などを描くと音階ができる。
そしてこの図から、ドレミファなどの文字と格子線を取り去り、
Winshotなどで、上の1480の赤線がら下の98の赤線までの領域を
ビットマップ画像としてキャプチャしてCoagulaLightで読み込めば
次のような音階が出来上がる。

CoagulaLight というソフトでは、PC画面上で、
横にスキャンする白い縦線とともに音が出るのだが、
その様子を、アマレココで動画記録した。


では渾身の「天地真理座 Universe Truth Asterism」 をどうぞ。

2011年5月15日 (日)

天地真理34 画像を音化

初めにお断りしたように、
このBlogでは天地真理さんの映像など、外見に関するものは扱わないこととした。
その真の理由は、彼女の外見的魅力にまで言及し始めると、
自分が何を言い出すかわからない恐れがあるためだが、
もしそれを言葉ではなく、音で表現できれば、
さほど私の内面をさらけ出すことにも、
したがってさほど無残なことにもならないだろうと考えた。

天地真理さんの映像美に対し、
F分の一の揺らぎ顔ですな」とおっしゃった方がいる。
f分の1ゆらぎは音楽において語られることが多いが、
映像においても、その濃淡や形の周期性をある規則で数値化すれば、
ゆらぎを抽出することはできる。
私は画像のゆらぎがf分の1となっている様子を想像することができないが、
もし画像を音にできたら、とりわけ天地真理さんの画像を音にできたら、
さぞ、この世のものとは思えぬほど魅惑的な音楽ができるのでは、と想像しても、
罪はないだろう。

そんなわけで、ソフトを検索してみたら、やはりあった。

  Image Synth :  CoagulaLight

周波数成分解析の項で紹介した、
横軸時間、縦軸周波数のグラフを思い出していただきたい。
そこには黒地のグラフ上に、周波数成分を表す白い線が何本も表示されていた。
この白い線が、ある画像の形をしている、ということだ。
つまり、横軸時間、縦軸周波数のグラフに絵を描き、
逆の計算をして音にするというわけだ。


早速聴いてみよう。
多々ある画像を試した中からの選りすぐりとして、
まず遠い夏さんよりお借りした「真理と山吹」より

微妙な空気が、この記事をUpLoadする前から漂うのがわかる。
写真は素晴らしい。
無処理画像は雑音が多くなるので、コントラストや明暗を調整してある。
明るい所で音が大きくなり、
明るい部分が画面の上側にある方が高い音になる。

白い服が通奏低音となり、
中間部でお顔が、その輪郭の柔らかさを反映して可憐な響きを醸し出し、
黄色い花が高音部に文字通り花を添える。

そんなことを思い浮かべる人はいないと思うが、
ジェット機が空を飛んでいるときにUFOに出会ったのではない。


次にmaristさんのHPの画像「stage」より

 

凛々しい姿が目に浮かぶ。
「飛び出せ!真理ちゃん」の登場シーンで使ってもらってもよかった。
間違っても「ウルトラマン」の登場シーンには使えないと思う。


おろちさんのBlogで拝見した顔写真より
明るい背景は雑音になるので黒く塗らせてもらった。


さすが天地真理さん。心も、世の中も、パッと明るくなる。


真保さん作の「天地真理オリジナルカレンダー」で拝見した似顔絵より
白黒反転してある。

絵の通り、音もとてもキュートだ。


初めに思いついた時は、なかなか素晴らしい企画だと思ったが、今となっては、
こんなことなら、言葉で語っておいた方が良かったと思わなくもない。

2011年5月13日 (金)

天地真理33 不世出の証を終えて

構想と少々の下書きがある段階で始めた「不世出の証①②③」だったが、
当初のイメージを大幅に上回る更新回数となった。
天地真理さんの歌の奥行きの深さにその理由があることはもちろんだが、
このBlogを訪れていただいた方々、
さらにはコメントを残していただいた方々が、
私に励みと真剣みを与えたことは確かである。
ここに改めて感謝したします。

私はこのBlogを始めるにあたって、少々不安があった。
せっかく気に入って愛聴している天地真理さんの歌のことを、
根掘り葉掘り分析することによって、
聴き飽きてしまったり、いやになってしまったりしないか、という懸念を持っていたのだ。
しかし、今「不世出の証①②③」を終えてみて
それは全くの杞憂であったばかりでなく、むしろ今まで以上に熱心に、
心からの楽しみを持って、天地真理さんの歌を聴けるようになった。
私はクラシックのピアノ音楽ではそのような経験をしたことはあるが、
流行歌手でこのようなことになるとは、少々驚きだった。
曲によってはそれこそ何度も繰り返し聴き、
局部的に聴き直したことも何度となくあるが、
そのたびに良さが膨らんでいき、しぼまないままある。
やはりこれは、彼女の歌にある「音色美」、「構成美」、
そして少々私の個人的体験や信条とからんだ「人間美」によるものだが、
私の中では、彼女の歌は、繰り返し聴くに耐える、立派な「古典」となっているのだろう。

様々な形式、素材、切り口で天地真理さんの魅力を発信し続けてこられた諸先輩方に比べ、
このBlogのこれまでの内容はまだまだ微々たるものだが、
「不世出の証①②③」を終えてみて、
天地真理さんの歌の魅力が増えこそすれまったく減らないことが確認できたことは、
私にとって大きな収穫だった。
これにより私は何の躊躇もなく、
これからも根掘り葉掘り、感想を綴っていくことができる。


多少の弊害もあった。
彼女の歌を分析することから、
私の中で、いい歌の一つの確固たる基準ができてしまったために、
他の歌手の歌、普段耳にする歌に関する評価基準が上がってしまったことである。
一言でいえば、大いに物足らない歌が増えてしまった。
私は美空ひばりさん的なアプローチを毛嫌いする気持ちはなく、
美空ひばりさんの歌も素晴らしいと感じられるのだが、
恐れ多くも美空ひばりさんの歌ですら、その声質や、表情の付け方などに、
疑義を感ずる時が以前より増えてしまった。
ましてや、今テレビ等で流れてくる歌は...。

もう一つ。
彼女の歌の良さを自分なりにはっきり認識するにつけ、
もうこういう歌手には出会えないだろうという思いがつのり、
切なさが込み上げてくる。
同時に、「歌がうまいとは思わなかった」とか、
「アイドルとして凄かった」とかしか言えない業界の方々、一般の方々には、
1790年ごろだったら、モーツァルトの良さを気付かなかったってことですよ、と言いたくなる。


それにしても、他の歌手のアルバムをあまり知らないから相対的なことは言えないが、
絶対的に見て、歌詞、曲、アレンジなどいずれの観点からも、良い歌が多いと感じる。
証の中では、もっといろいろな歌を残してもらいたかったと書いたが、
「天地真理 プレミアムボックス」に残されただけを聴いても、
天地真理さんの歌に懸ける、企画者、作詞家、作曲家、編曲家の方々の意欲は
並々ならぬものだったことは確かだろう。
ヒットを生むための曲、懐かしいカバー曲、
弦楽器の効いたクラシカルな編曲の少々重々しい曲、
粋なアレンジの効いたさりげない日常的な曲、
フォークソングからオペラ風ミュージカルまで、
明るい曲からしみじみと寂しい曲まで、
様々な心境の時にぴたりとくる曲がある。
決して歌を飾りとするアイドルという扱いではなかったことが窺え、
私にはうれしい。

最後になんと言っても、アイドル業という過酷な日常の中で、
こうやって残すものは残した天地真理さん、
あなたは大したもんです。

2011年5月 3日 (火)

天地真理32 証③ 「天使の約束」-3 人間美2

私が考える天地真理さんの「人間美」は、外見的な美しさではもちろんない。
人としての教養とか人格とかとも違う。
従順さとかおしとやかさというのでもない。
それを言葉にするのはとても難しいのだが。

私は、この「天使の約束」の初めの8小節を聴くと、
単なる明るさというよりも、優しさや温かみの勝った、慈しむような明るさを感じる。
彼女は事あるごとに、明るさを大事にしたい、というようなことを口にしているが、
先にあげた彼女の明るいヒット曲の中での明るさと同様に、
いわゆるアイドル然とした、キャピキャピした明るさというよりはむしろ、
歌詞に表れる、恋人と共にいる喜び、浮き立つ心、情景描写、などを歌う言葉に、
暖かみのある、
慈しむようなニュアンスを感じてしまう。

そんなニュアンスを聴いていると私は、
 人間美①
 天地真理さんは、
  優しく温かいものに強い憧れを持ち、
明るく生きていこうとする前向きさを持った人

なのではないかと思うのだ。
これが、
歌詞の中に表れる優しく温かいものを、心からの共感をもって表現できる理由ではないかと思う。

私は彼女の人生は断片的にしか知らないが、
私が感じる彼女のこの気質は、彼女が
ただただ幸せに生きてきたから、
ということから身についたのではないように思う。
かといって、不幸のどん底に浸ってきたから、というのでもないだろう。
彼女は物ごころついたころからお父さんがいなくて、お母さんと二人で暮らしてきたらしい。
お父さんがいない中では、たとえ優しいお母さんと一緒ではあっても、
どうしても寂しさや、喪失感を感じることはあったはずだ。
それを、ただ悲しいとせず、そんな中でも母と楽しく生きよう、実際楽しい、と感じる中から
明るさへの希求、
優しく温かいものへの憧れを育み、
そしてその裏返しとして、悲しみとの付き合い方、
あるいは
悲しみを昇華させる術を見つけたのかもしれない。
もちろん生来の天真爛漫さはあったのだろうが、
彼女特有の明るさのニュアンスの扱い方、

また彼女の歌う、悲しい、寂しい歌における、
歌詞の扱い方、表現の仕方に、そのような指向が表れているように思う。

彼女は、優しく温かいものに強い憧れを持ち、その裏返しとして、
悩みや悲しみがあっても、何かちょっとしたことに見いだせる明るさや喜びの方に
心から共感し、それらを大切にしようというような信条を持っていたのではないだろうか。
そして悲しいものに直面しても、それを深刻にせずに、朴訥にそれを淡々と受け止め、
涙をポロっとこぼして、また明日から前向きに生きていこうというような、
そんな人間性を育んでいたのではないか。


私は「小さな日記」の項で述べたように、彼女の歌の端正さにとても好感を持つのだが、
この「天使の約束」にもそれがある。
しかもフレーズの後半において、
オペラ風の演出なのだろうが、
少し近寄りがたいような、実力派歌手然とした雰囲気まで見事に醸し出す一方、
それだけのことができるにもかかわらず、
もしそれだけを追求していれば、もっと尊敬され、権威とか威厳とかを獲得できたであろうに、
フレーズの前半のような、天使になりきったような、
いや天使以上の優しさと暖かみをニュアンスとしてこめられる。

これはちょうど、先に紹介したヒット曲において、音楽的素養と実力を持った人が、
世俗的には他愛がないとされるような青春ソング的な歌にも、
気品と慈愛に満ちた表現を吹き込めることに、どこか似ている。

そんなことを考えているうちに私は、
 人間美
 天地真理さんは、
   音楽形式、企画・演出など、決められたものには
従っていこうとする誠実さ・潔さ
   もっと言えば、運命を淡々と受け入れる潔さを持った人

なのではないかと思うようになった。
このような気質は、ピアノという楽器を習得・修行する、地味で、忍耐のいる学生生活と
無関係ではないように思う。
実際のところ、楽器を高度に習得するという作業は、とても忍耐のいるものなのだ。
これに幼少のころから取組み、また音楽学校まで進んだ過程では、
先生について修行するという、少しずつの進歩、小さな差を叩き込まれる、
制約や訓練を受け入れなければならない、忍耐と潔さに満ちた日々だったことが想像できる。
この潔さのようなものは、悲しい歌において彼女が、「別れ」や「孤独」を表現する時のニュアンスの、
泣き叫んだり、悲嘆にくれたり、悲しみと戦ったりするのでなく、
運命をあるがままに受け止め、春を待つ花のようにじっと耐えるような、
淡々とした趣とも符合しているように思える。
私が彼女の悲しげな歌に魅力を感じるのは、
その悲しさにどっぷりとつかる悲劇的表現力というよりはむしろ、
悲しさを潔く受け止め、それにじっと耐えているような
人としてのけなげさを感じてしまうからだ。

彼女の誠実さ・潔さは、
まりちゃんズ真理ちゃんに直撃」というインタビューで、
自分の本当の希望などを口にする合間の、
スタッフやマネージャーへの気遣いの言葉などからも感じることができる。
ことあるごとに彼女は、「自分はわがまま」といいながら、
決められたこと、自分がひきうけたことはそれに従い、
その中で自分の共感できるものを見出し、最大限それを表現しようとする信条を、
持っているかのようだ。


そして何より、彼女の人間美として強調したいのは、
明るさ、優しさ、温かみ、とか、誠実さ、潔さ、といった、
重厚さや威厳やらには結びつかない、子供じみたメルヘンと揶揄されるかもしれないことを通し、

 人間美 天地真理さんは、
  人の心の中の、本来、本当の意味での美点であるべきものを、
  なんのてらいもなく、何の嫌味もなく、恥ずかしげもなく、
  心からの共感を持って表現できてしまう、まっすぐさを持った人、
  同時に、自分を飾ったり、奇をてらったりできないという意味でも、まっすぐな人

ではないかということだ。

彼女のまっすぐさは、
スター千一夜 ゲスト:天地真理 1975/3」の中で、
悩みを打ち明け、それに彼女らしい答えを見出そうとするけなげな様子からも伺える。
この一風変わった、哲学的ともいえる会話の中で彼女が考えていることには、
痛々しいまでのまっすぐさ、純粋さだけでなく、
芸能人として生きていく上での危うさまで含まれているように思う。


「天使の約束」は、小さな、取るに足らない曲かもしれないが、
その短く、単純な楽曲構造の中に、
彼女の底知れない音楽的実力と、それと一見相容れないような、
てらいのない、まっすぐ語りかけてくるような表現とが混在することから、
彼女の人間性についてまで思いを巡らしてしまった。

冷静に振り返ってみると、
重々しく大袈裟で、悲劇的で深刻なものほど価値があるかのような
現代社会、大人社会において、

社会的地位とか、権威とか、世俗的な知恵とかいうものが、
この世を渡り歩く上での方便として役に立つようであって、
実はこれらには、自分としてはどこかなじめない、
すがりたくないものだという思いが奥底にあり、、

押しつけがましく、教訓めいていて鼻につく、深刻ぶっていて鼻もちならない
そのようなものを、本当は自分は避けて通りたいのであって、
それらの対極にある、

天地真理さんから感じられる、明るさ、優しさ、温かみ、誠実さ、潔さ、まっすぐさ、
といったものに、私自身が本当の価値、本当の共感を感じ、憧れているということなのだろう。

私がここで人間美①、②、③として挙げたものは、
彼女の初期のひたむきな歌、
中期の明るくニュアンス豊かな歌、
後期の憂いを含んだ歌、
いずれを今聴き直してみても感じられ、
だからこそ、これらの歌に、理屈抜きで魅せられ、癒されてしまうということなのだと思う。
私は、このような
「人間美」を感じさせる彼女の声で、
もっと多くの童謡やクリスマスソングなどを公式音源に残してほしかったと、心底思う。

私は彼女の「不世出の証」として、「音色美」、「構成美」をあげたが、
もし彼女がこれらにすがり、これらを振りかざしてプライド高く現れたら、
私はこれほどまでに彼女にひきつけられなかったのではないかと思う。
音楽をきちっと作り上げようとするひたむきさは感じられても、
他を寄せ付けない、プロ特有の嫌味なにおいを彼女は感じさせない。
不世出と言ってみたものの、その言葉が醸し出す
孤高の、敬して遠ざけるような類の、鼻もちならない名歌手と言うよりは、
我々の忘れかけている素直な感情・美点を、まっすぐに語りかけてくれる、
端正でやさしくほんわかとしているが、良く聴いてみると凄い、
私にとってはそんな歌手なのだ。

彼女の歌にある「音色美」、「構成美」は確かに素晴らしい。
しかし彼女の魅力を決定づけているのは、その歌の背後にある、
彼女の
明るく、優しく、温かく、誠実で、潔く、まっすぐな
不世出の「人間美」にあるのではないだろうか。

この「人間美」は、彼女の歌だけでなく、映画でも、バラエティでも、
2000年以降のテレビ出演でも感じられた。
また、2011年4月に改めて創設された天地真理ファンクラブの、
第1回会報「ミモザ便り」に載っていた、彼女の最近の写真からも、
感じることができた。

私は天地真理さんとお会いしたこともお話をしたこともなく、
彼女の本当の人となりは知らない。
私がイメージする彼女の
「人間美」は、彼女の残した歌や映像、語りなどから
私が勝手に作り上げた虚像であるかもしれない。
私にとっては、それが虚像であろうと実像であろうと、どうでもいいのだが、
上記
「ミモザ便り」に載っていた、彼女と親交のある太田裕美さんのメッセージに、
「おおらかでまぶしい笑顔、真っ直ぐな生き方」とあったことが、
あながち全くの虚像でもないのではないかと、私に思わせている。

音楽としての完成度、何の疑義もなく聴きほれることができる歌としては、
彼女の不世出の「音色美」、「構成美」、「人間美」がそろったからこその、
「天地真理 プレミアムボックス」に、記念碑的な価値を認められる。
しかし、天地真理さんの魅力を決定づけているのが、

彼女の「人間美」にあると私が考える以上、
彼女の歌から「音色美」や「構成美」がなくなっても、
そしてたとえ彼女の声が出なくなったとしても、
私がイメージする「人間美」を彼女から感じられる限り、
私は彼女のファンであることをやめないだろう。

2011年5月 2日 (月)

天地真理31 証③ 「天使の約束」-2 人間美1

天地真理さんの「人間美」を語るに際し、触れておきたいことがある。

ひこうき雲さんという方が、公式音源のすべての歌に寸評を書いておられることは、
ご存知の方々も多いと思う。
そこには、各曲寸評だけでなく、
彼女のうた》の魅力の本質や
青春の日々のエピソード、彼女のうたの評価のされ方など
彼女の生き様にまで迫る思いがある。

私が抱く思いのすべてが、
私のBlogよりはるかに簡潔で、格調高い筆致で
綴られている。
私など、
ひこうき雲さんの大きなたなごころの上であくせくともがいている、
孫悟空のような感を禁じえないのだが、
大いなる尊敬と共感を持って読んだそれらの中で、

「恋と海とTシャツと」という曲が彼女のベストワンだ、との記述を初めて読んだとき、
私は少なからず衝撃を受けたことを思い出す。

音楽への広範な理解と、うたへの深い考察を示されているこの方が
幾多ある彼女の名曲・名唱の中で、
こともあろうにこのような他愛のない青春ソングをベストワンとおっしゃることが、
少々滑稽で、不釣り合いな感じを抱いたのだ。
とりわけこの曲のような青春ソング的な歌詞に対して、
言葉一つ一つのニュアンス付けに非常に敏感に反応され、
その魅力を語っておられることが、その時は意外だった。

私は、今までの記事でお分かりだと思うが、
詩とか言葉よりはむしろ、音によって描きだされる印象に弱い。
歌詞は、その歌の状況を示す、一要素に過ぎないという位置づけに近い。
そのため、音としていろいろなニュアンスがあることは認めても、
それが言葉一つ一つに対応した、喜び、幸福感、陶酔感、といったものと
結びつけて考える所までは、その頃思い至っていなかった。
しかしその後、プレミアムボックスを何度も聴き、
初めは避けていた、彼女のヒット曲のいくつかをも再び聴き直すようになって、
私がなぜ若いころにそれほどまでにこの歌手に惹かれたのか、
それは彼女の外見だったのか、仕草だったのか、声だったのか、を自問し、
天地真理さんが歌にこめていた何かに思い及ぶようになると、
おぼろげながら、
ひこうき雲さんが言わんとしておられたことに通じる何かが
意識できるようになってきた。

もちろん、この方の言わんとすることが本当に理解できたという自信はないのだが、
私はこの方が
恋と海とTシャツと」の解説で述べられていること、
またそれ以前に、
誰をも幸せにしていまう魔法の力などについて書かれていることが、
何か、我々を捉えて離さない、天地真理という人の根源的な魅力・価値を、
端的に言い当てておられるような気がするのだ。

そして、私が「天使の約束」で気付き、「人間美」と名付けた
彼女の邪心のなさ、まっすぐさのようなものは、
子供たちに向かった語りかけだけでなく、
「恋と海とTシャツと」のような、ある意味他愛のない青春ソングの歌詞であっても、
それは同様に発揮されているのではないかと思うようになった。

そう思って、彼女のヒット曲、とりわけ、
「ひとりじゃないの」「虹をわたって」「ふたりの日曜日」から
「恋と海とTシャツと」までへと繋がる、
明るさを売りにした一連の曲を聴いてみると、
彼女が、音色美や構成美以上に大事にしていたものに気づかされる思いがする。

正直なところ私は長い間、これらの明るい「メルヘンタッチ」と称されるヒット曲が、
彼女を売り出すために寄ってたかって作り上げ、捻じ曲げ、彼女に強いた企画物として、
彼女の本当の姿を示すものではないと避けていた。
また、それらを歌っている頃の彼女が、テレビに引っ張りだこで、
過労などから声がうまく出ていないことがあったことが頭に焼きついており、
その印象から、これらの曲を聴くに堪えなかったこともある。
シングルレコードのA面よりはB面に、ヒット曲よりはアルバムの中の曲に、
彼女の本当の姿、本当の実力が発揮されていると思っていた。
もちろんそれらを素晴らしく思う気持ちは今も変わっていないが、
しかし今となってみると、
シングルレコードA面の荒唐無稽な、「メルヘンタッチ」の歌詞に、
スタジオ録音であっても、その後の2つのライブ録音であっても、
彼女がいかに心をこめて歌っていたか。
一見他愛のない歌詞に、芸術的といってもいい見事なニュアンスを付けていることが、
望まないものを強いられて、うわべの歌唱技術で表現したなどというものでは決してなく、

一見他愛のない歌詞の中に真実を見て、彼女が心から共感して、
自分を解放して実は歌っていたのではないか、と思えるようになった。
そしてこれらの歌は、どんな名歌手でもまねのできない不朽の名唱と思えるまでになった。

これらの歌が、日本レコード大賞や歌唱賞の対象とするには他愛なさすぎると、
世俗的に評価されてもなんらおかしくない
「メルヘンタッチ」の青春ソングであればある程、
そんな歌をこれほどまでに素晴らしく歌ったこの歌手の人間的価値の方に、
私は今意識が向いてしまう。
ついでながら、そういった世俗的に評価されそうもないものを、
臆面もなく「私にとってのベストワン」と言ってしまえる、ひこうき雲さんという方に、
私は畏敬の念を抱いてしまう。

しかも、これを歌った人は、今まで人前で歌ったこともなく、
学校の音楽の成績も良かったとは決して思われないような、
突如として歌手として作り上げられたその後の大方のアイドル歌手とはわけが違うのだ。
音楽的素養と実力を持った人が、
企画・選曲の当初に、本人の心の中に幾ばくかの葛藤があったとしても、
心からの共感なしに、このような世俗的には他愛がないとされるものに、
これだけの気品と慈愛に満ちた表現を吹き込めるものだろうか。

私が若いころ、本当の意味で彼女を意識し始めた「ひとりじゃないの」という曲においても、
そのシングル版を今聴くと、軽薄でただ明るいというのではない、
優しく、温かみのある、いつくしむような明るさに溢れていて、
音色美とか構成美とかでは言いつくせない、
もっと大きな、もっと本質的な魅力が見事に開花しているように思える。
そして、「天使の約束」で私が感じた思い、
この歌を歌っている人は、こんな人なんじゃないか、こういう感じの人なんじゃないか、
だからこんな風に歌えるのではないか、といった思いが頭をめぐるのだ。

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