2012年5月19日 (土)

天地真理63 ちいさな恋(4)

昨年のファンの集いで、あるファンの方がご本人に、2番目に好きな曲は何ですかと尋ねたところ、
この「ちいさな恋」をあげられたと語っておられた。
本当にこれが2番目に好きなのか、
好きな曲は他にもいろいろあるから、とりあえず2番目のシングルということとかけて
この曲を挙げられたのか、その真意の程はわからない。
ただ、天地真理さんにとってこの曲は、シングルレコードで初めてオリコン1位を取った曲である。

   彼女が1位をとったのはこれが初めてではなく、
   全曲がカバー曲で占められたデビューアルバム「水色の恋/涙から明日へ」が、
   このセカンドシングルが出る前の1972年2月にアルバムチャートで1位を獲得しているとのことだ。
   このファーストアルバムは、通算13週(つまり3ヶ月以上)に渡り1位を取っていて、
   1972年の年間アルバムチャートでは、よしだたくろうさんを押さえて首位を獲得したそうだ。
   アルバムで1位を取るということは、歌手としてとても栄誉なことであると思う。
   それとともに、この歌手への正当な評価として、これ以上のものはないとも言えるだろう。
   しかもファーストアルバムである上に、シングルレコードが大ヒットするよりも前に
   これを達成したということだが、ご本人はこの事実をどのように感じておられたのだろうか。
   また、このファーストアルバムを当時買われた多くの方々は、
   どのような思いでこの新人歌手の歌を聴き、そして今どうしておられるのだろうか。

デビューシングル「水色の恋」が最高でオリコン3位までとのことだ。
何でもそうだが、1位とそれ未満の差は、印象として大きく異なる。
この曲を好きな曲の2番目として挙げられたことは、
やはり真理さんとしても、
このセカンドシングルが初のオリコン1位を獲得したありがたさを、
印象強く思っておられることの表れでもあるように思う。

さらに、この曲はシングルのA面曲として初めて、真理さんのために作られたオリジナル曲である。

   オリジナル曲としては、デビューシングル「水色の恋」のB面曲「風を見た人」
   (作詞:安井かずみ、作曲:村井邦彦、 編曲:森岡賢一郎)
   が既にあった。
  
印象深い気持ちがあって当然だろう。

ただ、単に2番目という以上の意味がこの作品にはあったように私には思える。
ファーストシングルのA、B面の曲から打って変わって、
この歌手を如何に売り出すかを考え、その後のアイドル路線に通じる
初々しさと未成熟な恋愛意識のような情感をテーマとして作り上げた歌詞、という点だ。

しかしそれを歌い上げるこの声は、どこかいぶし銀のようであり、
ヴィンテージ・スタインウエイのよう、と言ってもいい。
それはほとんど、この作り上げようとした企画イメージとはちぐはぐで、
アンバランスに感じられてしまうほどだ。
もっとも、この「アンバランス」というイメージは、
その後の「アイドル」たちが作り上げていった
この手の歌を歌う時に用いるニュアンスや歌い回し方が、
私自身の中で暗黙の基準となっているふしがある。
そのような先入観(いや後入感)を抜きにすれば、
むしろこの誠実さ、真っ正直さが
この歌、この歌詞にぴったりだと思えなくもない。

その後の天地真理さんのように”はじけ切っていない”と感じられる一方、
だからこそ天地真理さんの素の魅力として、
とても貴重で、味わい深いと言えるのではないか。


YouTubeに、当時の歌番組での、この歌の歌唱の動画が残されている。

「ひとりじゃないの」以降の、アイドルとして練り上げられた華やかさはないが、
とても上品な、大人のお姉さんが歌っている、といった感じがしたものだ。

歌い方がとても誠実な感じで、
ピリピリと
声を微妙にコントロールしようとしている様子も見て取れる。
ハの字まゆで、目をぱちくりしながら、少々ぎこちない笑顔を交えて歌う姿は、
後の、堂に入った表情での歌う姿に比べると、

この歌のテーマにぴったりで、とても初々しい。

私はある時期、「ひとりじゃないの」以降の、
はじけるような明るさと天真爛漫さを前面に出した輝かしい姿に、
アイドルとしてあまりに演出されすぎた辛さのようなものを感じてしまい、
それとの対照として、この「ちいさな恋」を歌う初々しい姿が、
この方が本来持っている、かけがえのない純粋さ、さりげなさ、ひたむきさを見事に示すものとして、
これこそが本来の天地真理さんなのだと勝手に決め付け、
ホログラムにして大切に取っておくべきもの、などと考えていたことがあった。

それとともに、彼女が得た人気というものに対し、
実は心からの誇らしさを感ずる一方、
後の展開を考えると、恨みにも似た割り切れなさを感じることもあった。

そこには、ここから別の展開もあったはずだ、
あるいはこれから大きく逸脱しなければ、かえって息の長い歌手生活ができたのではないか、
などという思いも含まれていた。


もちろん、何が本来の姿かなどわかるべくもなく、
また、彼女が得た人気は、
天真爛漫さも含めた、彼女自身の中にある様々な魅力に対する正当な評価であって、
それは彼女にとってもかけがえのないものであったこととして、今は納得できる。
それだけでなく、
「不世出の証」の項ですでに述べたように、
「ひとりじゃないの」以降のヒット曲についても、
今はそのすばらしさを冷静に評価することも出来る。


ただ、この、彼女だけのために作られた「ちいさな恋」という歌のシングル版の中で、
 ”ちょっとこわいの”とつぶやく彼女自身の言葉が、
1回目は何の陰りもなく爽やかに響く一方、
2回目に発せられる時は、微かに不安や戸惑いを感じさせるニュアンスを含んでいて、
それはもちろん、この歌詞本来の雰囲気を見事に表出していて、
それ以上でもそれ以下でもないことはわかっているのだが、

結果として、周到に練られた”真理ちゃん”路線に踏み出していく”ちいさな一歩”への
言い知れない恐れまで、期せずして象徴しているかのように感じられてしまう。


この地味で、ちぐはぐで、アンバランスに思える作品は、
それでも
どこか頭から離れない歌声、音楽フレーズ、アレンジ、
そして歌詞の魅力を含んで
いて、
爆発的人気を獲得する前夜の偶然と必然のようなものまでをも感じさせる、
とても印象深いものとして心に残り続けるだろう。

2012年4月27日 (金)

天地真理62 ちいさな恋(3)

「ちいさな恋」の歌詞について、
自分は最初からそう思っていたとおっしゃる方もおられる、
いや大半の方が、当たり前にそう思っておられた恐れがあるのも否定できないのを承知の上で、
あえて恥を忍んで記しておく。

  ”初々しさ、かわいらしさをアクセントとしているようでいて、
   また印象的な言葉を散りばめているようでいて、
   それらの脈絡が今一つつかみにくい、
つぎはぎ細工の体をなしている”
と受け取っていたこの歌の歌詞について、

妻のつぶやきが私に理解の糸口を与えてくれた。
たまに会えないのは、毎週会っている日曜日のことではないかというものだ。

  たまに会えない日もあるけれど
  それでもわたしは待っている
  ひみつの約束指切りは
  今度の日曜青い空
  ちょっとこわいの恋かしら
  赤い夕陽が今沈む
  (繰り返し)

  きいてみたいの一度だけ
  それでもわたしは黙ってる
  みつめる目と目はかくしても
  かくしきれないこの気持
  涙ひとつぶ恋かしら
  光る星空影ぼうし
  (繰り返し)

  なぜかゆれてるバラの花
  はずかしそうな恋の歌
  (繰り返し)

そう言われればそうかもしれない。
そして出だしの腑に落ちなさが、この歌全体に脈絡を感じる意欲を遮断していた状態から一転して、
この糸口は、私の頭を、素直にストーリーを追うように促してくれた。

まず毎週日曜日に会う約束をしていた。指切りをして。
そしてその日曜日には、だいたい会えるのだが、たまに会えないこともある。
それでも待っているのだ。
普通なら、たまにしか会えないのに待っている、となるはずの文脈だが、
毎週会う約束しているはずなのに、会えないこともある、それでも待っている、
という文脈なのだろう。


  (再考後記)
  毎週約束しているというのは、強引過ぎる解釈かもしれない。
  むしろ、次に会う約束をしている、しかしその約束をした日に会えないこともある、
  それでもその約束の日を待っている、
  という方が自然な解釈かもしれない。
  そして今回の「ひみつの約束」は「今度の日曜」だと、続けて告白していく。

この部分は必然的に短調である。

「今度の」というからには、
日曜より前の日に期待を持って佇む主人公がいる。
「今度の日曜」が「青い空」となることを祈りながら、
あるいは心も天気も「青い空」となることを必然と想像しながら、
「ちょっとこわいの恋かしら」と、希望と期待を持って自分の内面を反芻するうちに、

その日も暮れて「赤い夕陽が今沈む」。
期待部分は長調で、そして沈む夕日が、日曜が近づく喜びを湧き起こさせたかと思うと、
同時に心に微かな揺れを引き起こす。
ここで再び短調に切り替わる。

その揺れは、「きいてみたいの...」と、期待と不安と、
そして隠しきれないけれども内気に黙っている、交錯した心情の吐露となって表れる。
そして、あたりは星空となり、星空に相手の面影(影ぼうし)を探している、

とでもいうような情景が想像されてくる。

こうなってくると、最後の2フレーズにも、
何か辻褄の合う意味付けができるのではないかという期待が後を引く。
バラの花言葉は愛、恋、美、幸福、乙女、秘密、無邪気、清新、なのだそうだ。
これらの花言葉は、いずれもこの歌詞全体の印象につながっていく。
「なぜか」とわざわざ付け加えているのとは裏腹に、
というよりはむしろ、「なぜか」と疑問形式で言いながら必然的予言や宿命を示すという、
ドラマのナレーションなどでたまに見かける表現方法を使って、
この揺れている「バラ」は、
この内気な主人公の、これから先の人生への希望や励ましを象徴するものと
受け取りたくなってくる。

こう書いてみるとそれなりに素直な解釈で、
大半の方々が元からそう思っておられたとしても不思議ではないと思われてしまう。
もちろんこの解釈が正解だと言い張るつもりは毛頭ないが、
私の中で、この歌の歌詞が私なりの辻褄の合う一つのストーリーとして成立することで、
この歌が一段腑に落ちるものとなっただけでなく、
この歌詞が、会えている幸せな時の方ではなく、
会えない時の揺れ動く心情を
それに呼応するように長調と短調の間を行き来する曲調との合わせ技で描写している秀逸さ、趣深さのようなものを、
一連の情景変化とともに改めて感じることができ、
この歌の魅力がさらに深まったように感じられる。 

私自身は、饒舌で理屈っぽい割に多くのことに無頓着な人間であるが、
いつも待っていてくれて、内気で、想うことを10のうち1もうまく言い出せない、
そんな人への理解も、心なしか少しは深まったような気がする。

2012年4月 8日 (日)

天地真理61 ちいさな恋(2)

ところで、皆さんはYouTubeにある「ちいさな恋(萌え声バージョン)」というものを聴かれたことはあるだろうか。
私はこれでちょっと面白い体験をさせてもらったので、それについて触れてみたい。

ひょんなことからこれの存在を知り、
まったく予備知識なくその音を聴いた私は、
まず始めの1、2小節を聴いた段階で、久々に心が沸き立った。
もとよりこの歌は、天地真理さん以外では聴けないと考えていたのだが、
”萌え声”というだけあって、かわいらしく、少々人工的な香りがするものの、
とても上手で、真理さんのムーディーな雰囲気を継いでいるかのようなすばらしさを感じ、
こんな歌手が他にいたのか、と色めき立ったのだ。
さらに1、2小節聴き進むと、その歌いまわしのすばらしさに心奪われるとともに、
あまりにきちっと歌われているために、これは人工音声か、あるいはだれかある歌手の声を音響処理したものではないかと思う一方、
ひょっとしたら、という気持ちがこの時点で芽生えた。
そして、恥ずかしながら、”待っているー”、”指切りはー”のビブラートで耳が照合を始め、
”今沈むー”を聴いた時点でようやく確信となった。
これは天地真理さん自身の歌声を処理したものだったのだ。
”萌え声”処理とは、オリジナルの歌を、テンポはそのままで音程を1度(キーをAからBへ)上げたもののようだ。

それと気付いた後、2度、3度と聴くと、
これは明らかに真理さんだとわかるのだが、
全く何も知らない状態で聴いたこの”萌え声”は、

とても面白い体験だった。

  余談だが、私ははじめ、これは声だけを何か処理したものではないかと疑い、
  歌声抽出を試みた。
  この歌は、オリジナルカラオケが発売初期の”プレミアムボックス”にあったため、
  歌入りの音源からこのカラオケ音声を引き算すると、
  容易に真理さんの歌声だけを抽出することが出来る。

  私はかなり遅れて”プレミアムボックス”を購入したため、
  初期の特典であるオリジナルカラオケの原典版を持っていない。
  だが、YouTubeにアップされた、少々音質の劣化したオリジナルカラオケを拝借して
  この引き算処理をしてみると、それでもそこそこの歌声抽出が出来た。
  少々消しきれない、雑音のような伴奏部分が聴こえるのだが、
  真理さんのアカペラを聴いてみるのもいいだろうということで披露しておく。
  
  私はこの一見無駄な作業を行った後、はたと気付いたことがある。
  天地真理さんがア・カペラで歌っているのである。
  すなわち、これに勝手に伴奏をつけて合成すれば、
  自分好みの(テンポやリズムを変えられないので全く好みにとはいかないが)演奏に乗せて
  歌っていただくことが出来るのだ。
  オリジナルカラオケをお持ちの方で、志がある方は、
  試みられるのも面白だろう

さて、この「ちいさな恋(萌え声バージョン)」をアップされた方は、
他の歌手についても”萌え声バージョン”を公開しておられる。
それらを一通り聴かせてもらって気付いたことがある。
天地真理さんが歌う音程が、殊のほか正確なのだ。
完璧とは言わないまでも、ほとんど機械のように正確といってもいいほどだ。
逆に言うと、その他の歌手の方の音程が結構ずれていることが、
この1度音程を上げた処理で、強調されて聴こえるということだ。
これは、以前に声の周波数分析を行ったときに触れたが、
音程が上がるほど、
音程としては同じ1度(の何分の1か)の変化が、周波数の変化としては大きくなる、
ということが効いているのではないかと思う。
つまり、低音での音程変化より、
高音(あまりに高音ではこれもわからなくなるが)での音程変化の方が、
人の耳にとって、変化として感じられやすいためだと考えられる。
誰がどうということを言い出すと差しさわりがあるし、
また、音程が少々ずれていても、それは味となる場合もないわけではないので、
個別の分析はしないが、はっきりいえることは、
天地真理さんの音程が、他に比べて非常に正確に聴こえる、ということだ。
これは私がこの方の歌を聴いていて、
とても心地よく聴こえる一要因として前々から思っていたことなのだが、

この「ちいさな恋(萌え声バージョン)」のおかげで、
図らずもそれを、よりはっきりとした形で認識することが出来た。

2012年3月25日 (日)

天地真理60 ちいさな恋(1)

「ちいさな恋」(作詞:安井かずみ、作曲:浜口庫之助、編曲:馬飼野俊一)
天地真理さんのシングル第2弾目である。
この曲はファンの間では比較的地味な印象の曲なのではないだろうか。

しかし私には、これがとても天地真理さんらしい素晴らしい歌として強く心に残っている。



ドラム
ピアノ(いやビブラフォン系か)、弦のピチカートときて、フルートとピアノ、
そして弦がからむイントロは何度聴いてもわくわくする。
短調で始まる出だしのフレーズ、”たまに会えない日もあるけれど”が、
メゾソプラノというよりはアルトに近い音域で、とても心地よく響く。
このフレーズの最後の”けれどー”と延ばされる余韻の響き、ビブラートの心地よさ。
そして、”それでも私は”の響きで、ボーカル好きの人々の心を即座に掴んだはずである。
例によって、”天地真理トーン”とでもいうべき、倍音豊かにしてキンキンしない、
厚みがあって伸びが良い、不世出のファルセットである。
この他愛のない歌詞の歌が、芸術作品として見事に結晶しているかのようだ。

そもそも、”会えない日”は”たまに”である。
つまりほぼしょっちゅう会っているにもかかわらず、
なぜ”それでも”なのか、私には良くわからない。
しかしこの歌手がこのような素晴らしい響きで、とてもひたむきに、
短調の旋律の上下動に沿って”それでも私は待っている”と歌うと、
とても大切な気持ちがこもっているかのように思えてしまう。
しょっちゅう会っているのに、たまに会わないだけで”それでも”待ち遠しいということか。

ともあれ、続いて、短調から長調に切り替わると、
”ちょっとこわいの”という、とてもかわいらしい表現が聴かれる。
この部分、良く耳を澄ますと、とても慎重に、心をこめて、
言葉をメロディーに乗せて発していることがわかるだろう。
しかしそれは、とても控え目な表情付けだ。
控えめだからこそ、どことなく上品さが漂う。

そしてなぜここで”赤い夕陽が今沈”まなければならないのか、これもよくわからないのだが、
”沈むー”と発せられるこの声は、
この歌が、初々しさ、かわいらしさをアクセントとしているようでいて、
また印象的な言葉を散りばめているようでいて、
それらの脈絡が今一つつかみにくい、
つぎはぎ細工の体をなしているかのような中、
そのような小賢しい勘ぐりを見事に消し去り、
荘厳な、奥行きのある、何か立派な、深遠なことが起きたかのような、
不思議な聴後感をもたらす。
このような声の力による天地真理さんの歌の凄さは、語りつくせない。

これに類するこの歌手の声の力は、
YouTubeで紹介されている短いCMソング、
また「真理ちゃんシリーズ」での他愛のない挿入歌などを聴いてみても、
それらにことごとく見事な、芸術作品と言っていいほどの輝きと気品を与えていると、
私は断言していいと思う。

2012年1月 7日 (土)

辻井伸行 ジェニーへのオマージュ 作品1

新年明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
年末年始に、ささやかながら、とても気分のいいことがあったので、記しておきます。

このブログでも何度か取り上げたピアニストの辻井伸行さんが、
昨年11月に米国のカーネギー・ホールの大ホールにデビューした。
その模様の一部が昨年12/30と今年の1/1にテレビ放映され、
また、その一部の曲がCDとして発売された。
全曲を収録したDVDは2/8に発売される予定だ。
私はその中のある1曲についてかねてより注目していて、それが予想以上だったのである。

カーネギー・ホールはニューヨーク市マンハッタンにあり、
音楽の殿堂として数々の伝説がある。
ここではポピュラー音楽のコンサートも催されるが、
私にとってはクラシック音楽家の究極の舞台としてのイメージが強い。
Horowitzが長い隠遁生活からカムバックした1965年の演奏会もここだった。
Horowitz自身とても緊張して、1曲目では音を外したり、和音を探したりしたことが、
記録にも残っているし、伝説にもなっている。
ここのステージの床には「
Horowitzのネジ釘」というのがあって、
ピアノが最もよく響く(恐らく弾き手にとって最もよく音が反射してくる)位置がマークされていた。
今もそれが残っているか定かではないが、
同じ舞台に辻井さんが立てたという感慨が、私には強い。

またここは、辛辣な批評で知られるThe New York Timesなどの
マスコミの注目も厳しいことでも知られている。
ヨーロッパのコンサートも、好き嫌い、良い悪いをはっきりと態度で示す、
非常に厳しい雰囲気の場もあると聞くが、
やはりショービジネスの世界では、カーネギー・ホールは最大級の権威の象徴だろう。
そこへ招かれ、デビューできたことはとても価値のあることだと思う。
今回「Keyboard Virtuoso I、II」と題されたこの一連の演奏会には、
そのタイトル表現の大袈裟さだけでなく、
他にPollini、Schiff、Kissin、内田光子などが招かれていることからも、
その栄誉の大きさがわかるだろう。

このコンサート自体のことについて、事細かくここに述べるつもりはない。
私が注目していたのは、そこでアンコール曲として弾かれた
フォスター作曲「金髪のジェニー」(Jeanie with the Light Brown Hair )をテーマにした辻井さんの自作曲だ。

自作曲をクラシックのコンサートで弾くことは、20世紀初めごろまでは特に珍しくはなかったが、
現代ではとても勇気のいることだ。
しかし、それだけでない雰囲気があったようだ。
クラシックコンサートにおいてクラシック音楽以外の曲を弾くことに対する抵抗感が、
非常に強い雰囲気がある場所だ、というのだ。
それはニューヨークや、そこにある音楽の殿堂としてのカーネギー・ホールの歴史的意味が
関係していることでもあるようだ。
ここには、ヨーロッパの貴族趣味に憧れて、それにならって、
あたかもパトロンのようにクラシック音楽を崇める、
といった雰囲気があるということを聞いたことがある。
そして、そのような中で自作曲、とりわけクラシック曲でないモチーフを用いた曲を
弾くということに対する懸念は、コンサート前後で指摘されていたようだ。

日本人にとってフォスターという作曲家はとてもなじみが深いものだ。
唱歌の中に加えられ、学校の教科書などにも古くから取り上げられていた。
その曲調からも、ポピュラー音楽というよりは、準クラシック音楽に近いイメージが私にはある。
しかし米国では明らかにポピュラー音楽とみなされているようだ。


  日本語のウィキペディアでは、フォスターのことを「歌曲作曲家」としてある。
  そして「歌曲」とは「クラシック音楽における独唱声楽曲」とある。
  一方、英語版では{Songwriter」、「father of American music 」とあり、
  1970年に「Songwriters Hall of Fame」に入った、とあるが、
  「Songwriters Hall of Fame」は「National Academy of Popular Music」によるものである。
  つまりポピュラー音楽の殿堂に入ったということのようだ。
  
つまり、ポピュラー音楽をモチーフに使った自作曲は、
カーネギー・ホールでのクラシック音楽の演奏会にふさわしくなく、
聴衆に受け入れられない、という懸念があったようだ。
事実、アンコール曲になって、1階席の少なからぬ聴衆が立ち去ったらしく、
また米国のFaceBookなどでも、公演終了後に、やはり弾くべきではなかったという意見が見られた。
私も、NHKのニュース番組で、この演奏会のどの時点での場面かわからないが、
辻井さんが拍手に応えてお辞儀をしている最中に、
1階席の少なからぬ聴衆が立ち去っていく様子が映っていて、
かなり違和感を感じていた。

私は、カーネギー・ホールに集まった聴衆の中に、
単にクラシック音楽ではないモチーフを使ったということだけで、
その音楽をクラシック演奏会にふさわしくないと考える方々がいても、
あまり気にする気にはならなかった。
確かに、クラシック音楽とポピュラー音楽の安易な融合は、
あまり私の好みの音楽を生んでいないという経験からも、
そのようなことを毛嫌いする気持ちはわからないでもない。
しかし、クラシック音楽自体、元をただせば民族音楽や民衆音楽をモチーフに使っていたはずで、
無条件に排他的な風潮は、snobbismの表れのようでもあり、
今一つ与したくないもののように思えた。

ただ、クラシック音楽を良く聴く私自身が、
辻井さんの最近の自作曲に抱く物足らなさのようなものを、
カーネギー・ホールの聴衆も感じてしまった可能性はないか、
ということが気になっていた。
正直なところ、最近の彼の自作曲には、
安易な饒舌さ、のようなものを私は感じていた。
映画やテレビなどの、外からの要求に合わせ、
周りの性急な期待に応えすぎて、それにおもねってしまったのか、
耳触りは良いが、私としてはあまり何度も聴きたくなるものではなかった。
彼がカーネギー・ホールで弾いた新しい自作曲も、
それに類するものではなかったのか、という、作品の質的なものの方に
懸念を持っていた。
彼がこの夏に、作曲家の加古隆さんに3ヶ月ほど弟子入りしたということが、
NHKの番組の前宣伝にあったが、
たかが3ヶ月程度の弟子入りで会得できるほど、本当の作曲は甘いものではないのではないか、
とも思っていた。

私自身が現場に居合わせたわけではないので、何が本当の所なのかわからないでいたのだが、
NHKテレビで12/30に放映された番組の最後で、
アンコールを弾き終わった後、辻井さんが涙しながら、
聴衆の拍手に感動した様子が映し出され、
また本人から、それに感動し、満足したことが語られていた。
カーネギー・ホールの1階席で、アンコールの前後に立ち去った聴衆がいたことは事実で、
その方々が、このようなアンコール曲が上記のような理由で気に入らなかったことがあるとしても、
私はそれを責める気にはならないし、そこにもそれなりの真実があるのだと思う。
しかし、辻井さんが感じ取った聴衆の反応も、私は真実だと思いたい

すべての、ではないけれど、少なからぬ聴衆が、彼の挑戦を評価してくれたのではないかと思う。

そして何よりも、その番組で流れたこの曲が、私の耳を捉えて離さなかった。
そしてそのすぐ後に、この演奏会の実況録音のCDで、この曲を聴いた。
それは、彼の自作曲の中でもひときわ、私の琴線に触れるもので、
カーネギー・ホールの聴衆がどう思うか、アメリカのファンがどう思うか、などということなど、
一気に消し飛んでしまったのだ。




例によって、テレビで流れた時のこの曲は、映像を伴っており、
またテレビ用のためか、音の録り方が少々荒っぽかったりで、
その音楽そのものは、私の意識の中で、その良さをちらりと垣間見た、といった程度だったのだが、
その後に聴いたCDでのこの曲は、その出だしから、実に心奪われるものだった。
そのメロディー、和声の付け方、そして弾き方、が私の好みに合ってしまったのだ。

この作品は、まずフォスターの曲がほぼそのまま、彼なりの編曲を伴って弾かれ、
次にアルペジオが、このモチーフに付かず離れずの和声で、幻想的に展開されていく。
厳密に言うならば、前半が編曲で、この中間部が彼の作曲ということになるのだろう。
そして再びフォスターのモチーフに戻り、最後に、中間部のアルペジオが、
回想のように現れて終わる。

私はまず、フォスターのこのメロディーが、実に郷愁を誘うような、
何か故郷とか、家族とか、何か温かいもの、失いたくないものをくるんでいるような、
そんな感じを抱かせるものとして、とても気に入ってしまった。
もちろんアメリカの聴衆のためを思って彼が選んだ曲であるのだが、
彼がこのようなメロディーを自作曲のモチーフに選んだことが、
まずもって私にもうれしいことだった。

そしてその編曲部分における和音進行が、適度な濁音を含みながら、
非常に格調高く響いたことも、私の好みに合っていた。
中間部のアルペジオは、必ずしもフォスターのモチーフの変奏形式になっているわけではなく、
それと付かず離れずの関係なのだが、
それも今までの彼の自作曲に時に見られた、
少々歌謡曲的な、パターン化されたコード進行のものというよりは、
むしろクラシック曲で聴かれるようなものに近く、私には好感が持てた。
ここでは、フォスターのテーマから感じられる思いからさらに広がって、
いろいろな感慨が、人それぞれに感じられるところだと思う。
そしてモチーフの再現、中間部の再現、という構成も私には趣が感じられた。

そして何より、私は辻井さんの弾き方に心打たれた。
出だしの舟歌を思わせる部分から、静かにモチーフへと進み、
それが抑揚を持って膨らんでいくところを聴いただけで、
クライバーンコンクールでのショパンの協奏曲で聴けたような、
彼の入魂の表現が、ここでもまた聴けた、という思いが込み上げてきた。
私は以前、辻井さんはライブでこそ本領を最大限に発揮できると思われ、
ライブ録音を残すべきだ、と申し上げていたが、
それもかなえられ、しかもその期待に見事に応えてもらった気がする。

私には、この曲がクラシック曲としての語法を用いたとみなされるような、
正統的なものかどうかの判断はつかない。
それどころか、現代の作曲において、どうであればクラシック的なのか、
クラシックの演奏会にふさわしい作曲とは何か、すらはっきりしない。
またこれは、フォスターの曲をただ編曲し、少々即興的なフレーズをつけただけではないかと言われても、
反論することはできない。
しかし、この曲を既に20回を超えて聴いている自分としては、
クラシック的かどうか、クラシック音楽会にふさわしいかどうか、
作曲とはどうあるべきか、などどうでもよくなってしまって、
この作品は、ジャンルに関係なく、「古典とみなされるものと同等の価値がある」と言っていいのではないかという思いを抱いてしまった。

CDのジャケットを改めて見て気付いたのだが、
この曲には「作品1」とあった。
今までの自作曲を作品に数えず、これを「作品1」とした真意はわからない。
映画音楽やテレビ用音楽はともかく、初期の自作曲や、
自分自身の動機で作り出したこれまでの曲は、作品として数えてもいいのではないかと思うのだが、
即興的に作ったのではない作品、
きちんと作曲を習って作った作品、
クラシカルな語法を意識して作った作品、
あるいはカーネギー・ホールへの初挑戦に対する意気込みの証、
というような意味が込められているのかもしれない。
少なくとも私に言えることは、どんな事情があったとしても、
この曲は「作品1」と呼ぶのにふさわしい、何度も聴きたくなる、
気に入った曲となったのであり、
素直に、心から、辻井伸行さんに感謝の気持ちを伝えたいと思う。
ありがとう、よくやってくれました。

2011年12月31日 (土)

天地真理60 「なのにあなたは京都にゆくの」の衝撃

天地真理「プレミアムボックス」を購入すれば、
誰しもまずDVDをご覧になることだろう。
真理ちゃんシリーズというテレビ番組から抜粋されたそれらの映像と音は、
中学生時代にそれらをリアルタイムで見ていた記憶は定かでないのだが、
やはり何とも懐かしい感慨を感じずにはおれなかった。

さて、問題はその次である。
私の場合は、コンプリート・シングル・コレクションはさておき、
Disc.3 天地真理ファーストアルバム「水色の恋/涙から明日へ」に進んだ。
最初の曲、「水色の恋」を、これまた懐かしい想いで聴き終わった後、
「なのにあなたは京都にゆくの」 作詞:脇田なおみ、作曲:藤田哲郎、編曲:馬飼野俊一
を聴いた途端、衝撃を受けてしまった。

ご多分にもれず、長い空白期間を経て、
2010年の10月頃になって、天地真理さんが出演されるテレビ番組の前宣伝をちらりと見かけ、
そういえばそういう人が昔いたな、と思い、
気が向いた時にYouTubeでも見てみれば
懐かしい映像とかが出ているだろうと思ったのが再開の始まりである。

それまでも断片的にテレビに出ておられるし、それらに気がつけば、
または何らかの懐古趣味で昔を思い出し、YouTubeで探そうと思えば、
もっと早くの再開になったはずである。
しかし不思議なことに、まったく忘却し、またその手のトリガーに出会うこともなかった。

いざ、YouTubeを見てみると、なるほど懐かしい映像がいくつか見つかったが、

心に一番ひっかかったのが、「この広い野原いっぱい」だったと思う。
森山良子さんの歌で良く知られたこの曲を、真理さんはとてものびやかに歌っていた。
自分の持ち歌以外の曲も、このように感じ良く歌っているのならば、
このCD全集を買ってみても良いと思った。


そしてこのデビューアルバムの2曲目「なのにあなたは京都にゆくの」を聴くに至って、
私はこの歌手のことを何もわかっていなかったことに衝撃を受けてしまったのだ。
YouTubeを見て、うすうす感じ取っていたことではあったが、とどめを刺された。

私は若い頃、どれだけ天地真理さんのファンだったのか、
誇れるようなものは何もない。
確か、私の友人が南沙織さんを好きで、
おまえは誰がいいのかと問われ、
そのころの選択肢は、当然のことながら、例の3人娘のどれかということであったので、
その中で、声が柔らかい感じが、
また雰囲気が優しい感じのお姉さんのように感じたのだと思う、
そのあたりの感情はあまり覚えていないのだが、
天地真理さんと答えた記憶はある。
歌とか、外見とかということのほかに、
どことなくにじみ出てくるその人柄に惹かれたようにも思う。
ただそれは、尊敬できる人柄とか、立派な人だ、というような惹かれ方というよりは、
人としての純粋さのようなものを感じていたように思う。
もちろんどんなことに純粋さを感じるかは、人それぞれだから、
真理さんだけが純粋だ、と言い張るつもりはないが。

それ以後、真理さんと答えた手前、より興味を持って注目するようになったのだが、
もっぱらテレビに現れる真理さんを見、聴くことによって、
この人のイメージを作り上げていた。
もっと別の方法、つまりレコードやラジオなど、音だけからによる接し方から入っていたら、
また違ったとらえ方をしていたかもしれない。

私が真理さんの歌について当時どのように思っていたかについては、
詳しくは「ひとりじゃないの」の項で触れてみたいと思っているが、
彼女のヒット曲の企画のされ方、それらを歌うテレビでの印象、
そこでの演出のされ方、などから、
今思うほど、名歌手と言うべき存在、という捉え方はしていなかった。
むしろ彼女の歌そのものにフォーカスしようとしていなかった、というのが
本当のところだと思う。
テレビから伝わってくる、歌、外見、表情、しぐさ、などが合わさった全体的イメージが、
歌だけにフォーカスするには、圧倒的すぎたのだろう。

また悪いことに当時、人気女性歌手のアルバムを買おうという発想は、私には全くなかった。
少々硬派気取りだったのかもしれない。
ラジオでは歌のランキングが花盛りの頃で、
その中でも洋楽のランキングは聴いていた記憶がある。
カーペンターズが新曲を出すたびに1位を取っていた頃である。
クラシックや洋楽(トム・ジョーンズ、ビートルズなど)のレコードは多少持っていたのだが。
これが私における、決定的な理解不足を生んだ要因のように思う。

テレビから入って築きあげた真理さんのイメージからすると、
「なのにあなたは京都にゆくの」における彼女の歌唱は予想外にひたむきで、
そしてその声自体の魅力が実にストレートに伝わってくるものだった。

この歌との出会いは、その誤解期間の長さから思えばあまりにも悲しく、
しかし、彼女の、歌手としての素晴らしさを気づかせてくれたという意味では、
限りなくうれしいものだった。
幸先よいことに、私は「プレミアムボックス」のCD2曲目にして、
このCD全集を買った価値を噛み締めることになった。
この後さらにどんな歌が聴けるのか、という期待がいやがうえにも高まった。


「水色の恋」では、どちらかといえば、軽やかな声の出し方で、
ビブラートも震えるような、余韻を大事にするような発声であった。
それに対しこの歌では、力を込めて発声した時、この歌手がどれほどいい響きの声を出すか、
を端的に知ることができる。

まずもって、実に端正な歌い方である。
言葉一つ一つをとてもはっきりと、癖なく発している。
曲調にもよるから当然だが、、後の明るい発声方法はここにはなく、
かといって、暗さや、うらみがましさといった色は少なく、
ただ、ひたむきさ、が伝わってくる歌い方である。
強烈な声、というわけではないが、
伸びがあって、力強く、実に響きのいい声だと私には思える。

特に、歌が始まってから9小節目の、「なのにあなたは...」からを聴いてみてもらいたい。
この曲のオリジナルはチェリッシュによるものであって、
このアレンジは、チェリッシュのオリジナル曲によく似ている。
ところがその歌い方はかなり異なる。
こうやって他の歌手と比較してみると、
この歌手が、クラシックをベースにしてきたことがよくわかる気がする。
言葉はあくまで端正にはっきり発音するなかで、
声の力で、この歌詞の状況を盛り上げていっているように思う。
ニュアンスの付け方が大袈裟なものでないため、
演歌などがお好きな方にとっては、物足らないと思われるかもしれないが、
私には、程よいビブラートと共に、癖なく発せられる言葉の流れから、
歌詞と曲がそれだけでもとから持っている情感が、とても上品に伝わってくるように思える。
あたかも、歌詞によって何らかのエピソードを与えられた、言葉のない器楽曲を聴くかのように、
何度聴いても飽きない心地よさがある。

「なのにあなたは...」から1小節進むごとに声に力がこもっていく様子がとりわけ心地よい。
「それほどいいの」の「れ」で使われるポルタメント
(「れ」の出だしはその前の「そ」と同じシ♭から始まり、直後になめらかにドに上がる)
は、力強さを盛りあげるのに有効に働いている。
なぜ京都に行くのかを問う主人公の心情描写が、このちょっとした音楽的表現で一気に盛り上がる。
チェリッシュはこのような歌い方はしていないので、真理さんが独自に取り入れた表現法だろう。

そして続く「このーわたしの」の「のー」で、その力強さは頂点に達する。
ここでのビブラートは、「水色の恋」で聴かれた震えるようなビブラートとは全く異なり、
より長周期の、力のあるビブラートだ。
しかも、ここでは「このー」の「のー」が発声されるとほぼ同時にビブラートが始まっている。
以前のコメントで、このようなビブラートはクラシック歌手のやり方だとご指摘を受けたことがあるが、
そのようなことからも力強さを感じるのかもしれない。
このようなビブラートには、かなりの喉の力と訓練が必要なのではないだろうか。

この歌を聴くと、私はこの歌手は、とても力量のある歌手だと思ってしまう。
そしてファーストアルバムの2曲目に、このようなものが用意してあったにもかかわらず、
なぜ今までこれに気付かなかったのか、とも思ってしまうのだ。
この曲は、名曲名唱の多いこのアルバムの中でも、
ひときわ歌い込まれたかのような、完成度の高いものになっていると思う。
そのような歌に込められた本当の意味を、私は当時わかってあげることができなかった。
しかし、今更それを言っても始まらない。
今これを聴いて楽しめていることに素直に感謝すべきだろう。
そしてこの曲は、カバー曲でありながら、「プレミアムボックス」というCD全集においての、
新たな発見の始まりともなった、とても印象深い曲として私の心に残っている。



さて、今年から始めた本ブログは、
灰汁の強いものであるにもかかわらず、1年で28000カウントを越えるアクセスをいただきました。
当初は10月の真理さんのデビュー記念日まで続くものかと思っていましたが、
アクセスをいただいた方々、またコメントをいただいた方々の存在が励ましとなって、
ここまで続けることができました。
その過程では、長年天地真理さんを盛り立ててこられた
老舗のブロガーの方々からも声をかけていただけ、
また、頂いたコメントから、曲作りなどの新たな展開も生まれました。
それらの方々の中の何人かの方々には、11/5の集いで直接お会いすることもできました。
今年は天地真理さんのデビュー40周年記念祝賀会があり、
それをお祝いする意味で行ったピアノアレンジも思いのほか好評をいただき、
私のライフワーク的趣味になりそうな存在にまで膨らんできています。
また、このブログを通じて、今まで他でお見かけしなかった、
潜在的ファンの新たなお目見えと思える方々に出会え、
それらの方々のお気持ちを聞かせていただくこともできました。
 「天地真理さんのことを世に語り継ぎ、
  またそれをきっかけに、ファンの方々とも交流できれば」
と思って始めたこのブログは、ささやかではありますが、
その通りとなったのではないかと満足しております。
天地真理さんへの思いは、いろいろと欲を出せば切りがないのですが、
私は私なりのスタンスで、今後もネタが続く限り、細々と続けてみようと思っています。
今年一年、誠にありがとうございました。
皆様にとって、そして天地真理さんにとって、
来年がより良き年となりますよう、お祈りいたします。

2011年12月 3日 (土)

天地真理59 風を見た人

次の記事を手掛けていて、どうしてもこの曲を取り上げておきたくなった。
天地真理さんのデビューシングル「水色の恋」のB面の曲「風を見た人」である。
(作詞:安井かずみ、作曲:村井邦彦、 編曲:森岡賢一郎)
B面ではあるが、彼女にとって、自分のために作られ、発売された初めてのオリジナル曲である。
聴いた第一印象でわかるだろうが、彼女の歌をいろいろ聴いている人にとっては、
かなり異様な曲である。

まず音域がかなり広い。
「水色の恋」が、ソ#~ド# であったのに対し
この「風を見た人」は ファ#~レ であり、下が長2度(ドとレの間隔に相当)、上が短2度(半音)高い。
彼女は高音はもっと上まで出せるので(少なくともミまではきれいに出している)、
この曲はとりわけ低音方向に音域を広げた曲と言えるだろう。
ファルセットで低音まで出すということは、かなり難しいことのように思う。
それをこの歌手の大きな特長として捉えて、意欲的な作品を作ったようにも思える。
そもそも音として出にくく、言葉も発音しにくい裏声での低音が、
ちょうどその部分での歌詞の異様さと相まって、
ただ事でない心情や緊張感を出しているように思う。

また、中間部の高音域で歌われるところでは、
遅延をかけた声と重ねて2重の声にし、なお且つかなりのエコーをかけている。
私は、彼女のような響きのいい声の場合、このような処理をしない方がいいと思っているが、
この曲では、このような処理によるコントラストが独特の雰囲気を出していて、効果的ともいえるだろう。

この中間部には、後に確立された清純アイドル路線、メルヘンタッチという基準からみると
禁句と言ってもいいような歌詞が使われているだけでなく、
ここの”私を泣かせる”の部分では、彼女としては非常に珍しく、
感情を表に出すかのような、語り言葉としての思い入れ表現が聴かれる。
そして言うまでもないことだが、いわゆるアイドル然とした印象が、
曲全体からも、歌い方からも一切感じられない。

このように、明らかにこの曲は、天地真理さんが歌ったオリジナル曲の中では、
飛びぬけて特異である。
曲自体は、イントロのアレンジから言って、フォーク調と言ってもいいのだが、
歌詞にはメッセージ性や社会性はなく、中間部のアレンジはむしろ歌謡曲調でもある。

シングルのB面は微妙な存在である。
A面ほどまじめに聴かれず、そこに何らかの難があっても聴かずに済まされる。
しかし、もしそこに何らかの特徴的魅力があれば、そこからブレークすることもある。
アルバムより耳に触れる可能性はあっても、B面の失敗は許される、
そんな、いわば少々冒険的なことが出来たり、A面と違う何かを試すことができる場のように思う。
私は、天地真理さんという素材を使ってここで試されたことは、未完成ながら、
”フォークをルーツとしながら、より洗練され、それでもなお、歌謡曲とは違うという意味合いで使われた”
と後に定義された「ニューミュージック」の先駆けと言ってもいい路線ではないかと思える。

ちなみに、小柳ルミ子さんのデビューシングル「私の城下町」のB面は
木彫りの人形」 作詞:山上路夫、作曲:平尾昌晃、編曲:森岡賢一郎
南沙織さんのデビューシングル「17才」のB面は
島の伝説」 作詞:有馬三恵子、作曲・編曲:筒美京平
である。
今これらを聴いてみると、このお二方に関しては、
その後の歌のイメージと比べてほとんど違わない印象を持つ。

かなり短絡的なくくり方だが、、
演歌的な歌い回しができて、型にはまった”うまさ”として認められやすい歌い方の小柳さんと、
声に艶とパンチがあり、リズミックな曲によく合う、後の実力派アイドル歌手の先駆け的歌い方の南さんは、
それぞれ歌手としての売り出し方のイメージが定まりやすかったのではないか。
それに対して、クラシカルな発声で、演歌的な癖がなく、
かといってムード歌謡としては暗さや陰りがない歌い方の天地真理さんの場合、
どのような歌手として売り出していくか、模索されたに違いない。
この曲は、そんな彼女の特徴を生かすべく、その時点で考えられた一つの方向性であったのかもしれない。
つまり基本はシンプルで癖のないフォーク調に置くが、そこから社会性やメッセージ性を取り去り、
若い女性の心情や心理を扱って、より洗練されたサウンドとして仕上げていく、といった
都会的「ニューミュージック」である。
この曲の場合は、明るい都会的さ、ではなく、少々無機質的な茫漠とした都会的さ、だが。
別の歌手が歌えば、どうしようもなく暗い闇に沈み込むような歌になってしまいそうなマイナーの曲だが、
真理さんが歌うと、深刻そうでありながら、暗さや恨みがましさが漂わない、
透明感のようなものを持つところに、
都会的「ニューミュージック」を予感させる新しさが感じられるのではないか。

この曲の作曲家、村井邦彦さんは
プロデューサーとして荒井由美さんをデビューさせた人であり、またYMOを手掛けるなど、
新しいジャンルを開拓することにたけた人であったようだ。
作曲家としても、トワ・エ・モワの「或る日突然」や、赤い鳥の「翼をください」など、
フォーク的ではあるが、それまでのフォークとも歌謡曲とも少々異なる、印象的な曲を作っている。
他にも、この作曲家の曲が、真理さんのデビューアルバムに2曲、カバー曲として入っているが、
その後も、「美しい星」「明るい表通り」「鳩がいる公園」などがアルバムの中で歌われている。
これらの曲は、彼女の歌の中で華々しく成功したと言える部類ではないかもしれないが、
いずれも、どこか新しい切り口を試そうとしたかのような、新鮮な感じが印象として残る。

それまでの女性歌謡曲歌手にはない、声としての響きの良さと、
歌い方に癖や陰りがないという特長は、
それまでの歌謡曲歌手を手掛けてきた作家から見れば扱いにくく、売り出しにくいものであったかもしれないが、
志のある作家、プロデューサーから見れば、歌謡界にイノベーションを起こせる素材と映ったのではないだろうか。
今から見れば、必ずしも彼女に合った曲とはいえなかったかもしれないが、
この「風を見た人」は、そんな彼女の可能性の模索の中での、一つの答えとして示された
とても貴重な作品であると思う。

後付けで振り返った時、「ニューミュージック」の第一段階は、
吉田拓郎、井上陽水、小椋佳、荒井由実、かぐや姫、五輪真弓、といった人々の作品を言うようだ。
このあたりの歌謡史の流れを時代的背景とからめてたどることは、
なかなか面白いテーマであるかもしれない。
「ニューミュージック」は基本的にシンガーソングライターによるものであることが条件のようになっているようなのだが、
明らかに天地真理さんはその黎明期の渦中にあり、
専門の作曲家も時代の雰囲気を受けて、それを模索する中で、
それを具現化する歌手の一人としてみなされていたのではないかということが、
この
「風を見た人」を聴くと、感じられてしまう。

従来の日本的イメージを新鮮な形で引き継ぐ小柳ルミ子さんと、
若くて艶とパンチのあるアイドルの新しい形を切り開く南沙織さんに対して、
この時点の天地真理さんは、何か時代を先取りした、
歌謡曲そのものの新しい世界を切り開く役として期待されたかのような、
アイドル的な香り一つない真剣さ、挑戦的一途さが、
曲自体にも、真理さんの歌唱にも感じられる。
もし「時間ですよ」によるブレークがなかったら、別のカテゴリーでも音楽史に名を残す
イノベーションを起こせたのではないかと想像してみるのも悪くない。

2011年11月15日 (火)

天地真理58 集いの印象&水色の恋 旋律抜きと楽譜

11/5、天地真理さんのお誕生日に重ねて「天地真理ファンの集い」が開催され、
私は天地真理さんに関係する催しとして初めて、これに参加した。
私のようなものにとって、馴染めないタイプの方々の集まりかもしれないと、
行くまでは内心不安もあったが、少なくとも私がお話しできた方々は思いのほか、
私にとって”普通”の方々だった。
もちろん若い頃は武勇伝の一つや二つをお持ちであって、
歳と共に否応なく常識を身につけさせられた方も中にはおられるかもしれないが、
少なくとも今は、常識といたわりの心をお持ちの方々ばかりと感じた。
また私のような新参者にも温かく声をかけていただき、
お話しさせていただいた方々に、心から感謝申し上げたいと思う。
ありがとうございました。


ここでは、この集いでの印象として2つの事を取り上げておきたいと思う。

まず主催者の方の、真理さんの歌へのご理解についてである。
これは伝え聞いていた今までのサークル活動内容からも感じられたことではあったが、
真理さんの歌、歌声に心底魅了され、正しく理解されていると感じられた。
”正しく”というのは大変不遜な言い方で、”私も共感を覚える”というべきだろう。
主催者の方とお話しすることも出来て、真理さんの歌へのお気持を言葉で語っておられたが、
それは、選ばれた未発表音源が、どれも私にとって素晴らしいものであったことからも、
私にははっきりと認識することができた。
もちろん今回の集いは、歌の魅力だけに凝り固まった、堅苦しいものではなかったのだが、
このことは、このサークル活動が私も望むものを大きく含む形で運営されるであろうことを印象付け、
大変うれしく、また頼もしく感じた。


2つ目は娘の真保さんのお言葉についてである。
今回の集いは、天地真理ファンクラブの会員でなくとも参加できる、
ファンによる自主的なサークル活動ということで、
真保さんはゲストとして参加されていた。
私も含め、いい歳のオジサン連中がほとんどであったから、
さぞかしい居心地の悪いものだったのではないかとお察しするが、
立派にご挨拶までされたのには恐縮した。

そのご挨拶の中で、真保さんは、
「愛ってなんだろ」と「虹をわたって」の2つの映画をDVD化できるよう頑張りたい、
とおっしゃっていた。
天地真理さんの作品を、歴史に残る形で残せる、というだけでなく、
私が折に触れて申し上げている、映画館という拘束された時間、空間だけでなく、
もっと自由な形で、
忙しい、あるいは動きのとれない、あるいは内気で出向けない、
オジサン、オバサン連中にとって大変うれしい形で鑑賞できるようになるという意味でも、
とても大きいことだと思う。
真保さんは、協力してほしい、ということもおっしゃっていた。
どのようなことで協力できるのか、まだよくわからないが、
我々も協力できることは協力して、是非とも実現したいことである。


さて、今回の集いでは、
私がブログをやっているというだけでなく、
「水色の恋 ピアノアレンジ」を発表した直後であったということもあり、
ファンの皆さんから声をかけていただきやすい、打ち解けやすい状況にあった。
人と人との間を取り持つ音楽の力を改めて感じた次第だが、
何を隠そう自宅でも、この曲は結構評判がよく、
音楽CDにして部屋の再生装置で流すこともしばしばあった。
そんな中で、この曲調と旋律なら、旋律部分をオカリナでやってもいいのではないか、
そのためには、旋律部分を外した演奏があってもいいのではないかと、
妻が提案してくれた。
その後、オカリナは、親しみやすいようでいて、
なかなか奥が深い楽器であることを我々は知るのだが、
オカリナに限らず、今回のハ長調の音程だと、
私のようなものでも鼻歌のように口ずさむのにちょうどいい音程でもあるし、
元々いろいろな楽器に合う曲であると思っていたので、
使っていただけるかどうかは別として、
妻の提案をありがたく頂戴し、
旋律なしのものを披露しておいてもいいのではないかと思い立った。

天地真理 水色の恋 Piano Arrange(旋律なし)

最後に、このピアノアレンジのピアノ独奏楽譜を公開しておく。
このアレンジをする際、本物のピアノによる、部分的な響きの確認を行った以外は、
基本的に、MIDIに変換できる楽譜作成ソフトの画面のみで音符を並べていったため、
手が届かないなどの、演奏不可能なところはないが、
正直言って弾きにくい個所がある。
もう少し弾きやすい形に改編すべきかとも思ったが、
面倒なのでそのまま公表することにした。
もし万が一、これを見て弾こう、などと思い立つ殊勝な方がおられたら、
遠慮なく弾きやすいように変えてお試し願いたい。

天地真理 水色の恋 Piano Arrange 楽譜

2011年11月 3日 (木)

天地真理57 水色の恋(8) ピアノアレンジwavファイル

「天地真理 水色の恋 Piano Arrange」に思いのほか反響があったので
びっくりしています。
聴いていただいた方々、いろいろとお言葉をいただいた方々に、
心より感謝いたします。

YouTube版は多少の音質劣化があるので、
ここにwavファイル版「天地真理 水色の恋 Piano Arrange」をあげておきます。

音声のみですが、音質はこちらの方がいいと思います。


  上記リンクにアクセスすると、Googleのドキュメント共有画面が出ます。
  右上のDownload(48MB)をクリックすると、
    「Sorry, we are unable to scan this file for viruses.」
  という表示が出るかと思います。
  当方でウイルスチャックはかけておりますが、結局信用するかどうかですので、
  気にされる方はご遠慮されてはと思います。
  聴取あるいはダウンロードされたい方は、その下の青色表示の
    「Download anyway」
  をクリックされると、指示画面が出るはずです。

2011年10月29日 (土)

天地真理56 水色の恋(7) ピアノアレンジ

本ブログの更新が止まっていたのには理由がある。
「水色の恋」の巻の最後を飾るものとしては、やはりピアノアレンジが必要だ。
ということで、恥ずかしながらようやくお披露目となった。
お気に召せばよいのだが。





以下はアレンジに関する説明であって、無理に読む必要はありません。



出だしは、1974年ライブ録音(アルバム「天地真理オン・ステージ」収録)での
真理さんの歌い方、ポルタメントなどを真似してみた。

出だしの部分のコードは、「時間ですよ」第48回(1971年11月頃)で
真理さんがギターで弾いたコード(シングルのものと異なる)を少し参考にした。

歌詞1番に相当するフレーズは、デビューシングルでの伴奏アレンジを極力取り入れた。

歌詞1番と2番との中間部は、
エフゲニ・キーシンが若いころの日本公演で弾いた三枝茂章編曲の「夏は来ぬ」
(キーシンは三枝茂章の編曲を少し変えている)
からフレーズを一部借用し、「水色の恋」の出だしのフレーズパターンを重ねた。

歌詞2番の歌い始め直前のフレーズは、
辻井伸行さん作曲の「風の家」から一部借用した。
これは次のアレンジの一部とパターンが似ているため使ってみた。

歌詞2番の中の装飾は、1976年ライブ録音(アルバム「私は天地真理」収録)での
アレンジを一部参考にした。

これはピアノ独奏できるようになっているが、
内声部が結構あるため、完璧に弾くのはなかなか難しい。

演奏はMIDIで作成した。
作製ソフトは、Studio ftn Score Editor Classic 6.16.0427
音源はAlicias Keys (Kontakt 4用)
を使用した。

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